山あいの高速道路を運転していると、水分をたっぷり吸った樹々たちがむんむんと生気を立ち昇らせています。新緑はもうすっかり大人の濃い緑になり、梅雨曇りの弱い日差しを威嚇するように大きな葉をゆっさゆっさと茂らせ山を支配しています。
その中に薄いピンク色の花をびっしりとつけたねむの木を見つけました。毎年咲いていたはずのねむの花がなぜだか今年は目につきます。そして一度気が付いてみるとねむの木は道路沿いのそこかしこに生えています。花は繊細なのにその立ち姿はおおらかで樹高も6~10mはあり、遠くからも目立ちます。
ぼんやり流れる“ねむの花~”というメロディーが、もやがかかったような頭の中に、ねむの木の眺めと共に浮かんでは消えていきます。もうすっかり忘れてしまったようなものでも、記憶の奥の奥に残っている時があり驚かされます。そういうものはどんどん積み重なり無意識の領域に沈殿していき、ふとしたきっかけで蘇ります。
遠い記憶をたどって思い出したのは、これは中田喜直作曲の合唱曲で10代の頃歌ったことがあることと、子供の頃実家に大きなねむの木があったことでした。
《ねむの花》(壺田花子作詞・中田喜直作曲)の歌詞につかわれるのは、“風の中で誰か歌う” “あなたは疲れた” “おねむりなさい” “この世の岸辺”などの言葉です。そこに中田喜直さんは本当に優しい音楽をつけておられます。
私が運転中に思い出した“ねむの花~”というメロディーは、中間部の盛り上がりを経た後の不協和音で曲がフェルマータする(停止する)、つぶやきともとれるような箇所です。そこでは言いたいことをすべて言わずに含ませおくような、または遠い記憶に浸って立ち止まるような、そんなニュアンスを漂わせます。
優しい音楽に包まれたこの歌詞の意味を何となく深読みしてしまいがちになる私は、自分の中をたくさんの年月が過ぎたことに気が付きはっとします。音楽を聴きながらその人が自由に想像を膨らませるように、詩も読む人の想像力や味わう年齢によって違うように聞こえるのでしょう。
年配の方は命に敏感で樹を伐りたがられません。長い年月雨風をしのぎながらたくましく生きてきた樹に命を見、自分と重ね合わせておられるのかもしれません。大学生の頃、無神経な若い私たちがお掃除のとき枯れた花を花瓶から直接ゴミ袋に突っ込むのを、70代の寮母の先生はとても悲しく思われて、また拾って丁寧に新聞紙でくるんでいらっしゃいました。樹や草花を見て思うことも音楽を聴いて思うことも、年とともにだんだんと変わっていくのでしょう。
私の好きな曲⑲ ”さくら横ちょう”加藤周一作詞もご覧ください。