2015.08.08
ここ数日は想田和弘氏の『熱狂なきファシズム』を読んでおりました。
氏は『選挙』『精神』等のドキュメンタリー映画で日本の現状を観察してきた映画監督。
このところ心に引っかかることがあり、その解決のヒントになるのではと思い手に取った一冊です。
面白かったですね。
日本社会を鋭く見つめてきた方だけに、その現状の把握と懸念に考えさせられるとともに
彼の手法、彼はそれを
”観察映画”と読んでいるようですが、これには大いに興味を惹かれました。
詳しくは「観察映画についての覚え書き」の章で解説されているのでそちらに譲るとして
大雑把に言うと、”観察映画”をとるにあたっては
台本を用意しない、事前の準備は最小限、、撮影隊も少人数、結論を設定せず、
なんと「メッセージ=いいたいこと」も設定しない。
つまり撮影の始まりには、一体どんな作品になるのか監督にも予測がつかないと言うこと。
そのかわり、撮影中は徹底して対象の観察に徹する、と。
「目の前で起きていることをじっくりと観察し、出来事や時間の流れ、空間をカメラでとらえることに集中する」のだそうです。
これって、即興演奏とそっくりだ!
鍵盤上で、指の触れるがまま、最初は遊び弾き
徐々にメロディや、和音が立ち現れ、また途切れ、
ときには偶然指のあたった音(作品演奏ではこれをミスタッチと言う)から
さらに新しいアイディアが生まれてくる。
自分が音を紡いでいるのに、まるで見知らぬ街を散歩しているようなワクワク感。
意図したメッセージはないのに、でも、何よりも正直にそのときの自分の状態を表現してくれる。
想田氏は言います。
『
予定調和的な台本至上主義に蝕まれ、現実を「よく観る」ことを怠っているのは、政治だけではあるまい。(中略)台本主義は、芸術の世界を含め、実は我々の文明社会を行き詰まられせている元凶であるような気がしている。』
はた、と納得しました。
このところ、心に引っかかっていたこと。
「なぜ政治家の言葉があれほどまでに空虚に感じるんだろう」
それは目の前にいる生身の人間を見ず、感じず、ただ予定された台本を読み上げる
その空っぽさ、虚しさ。
それがどうしようもなく、居心地悪く、気持ち悪く、ざらざらと心を逆なでするのです。