2017.07.12
『世界には「伏し目がちに語る人々」がいる。「曖昧に笑う人々」の国や社会がある。
「そういう国や社会の人びとは、だいたいは、他の強国に攻め入られた歴史をもっていたり、他の先進国の植民地にされた歴史を背後に抱えていたりする。
日本も、1945年の敗戦を機に、はじめてそのような国々の仲間に入った。」』
そのような まえがきから始まる
加藤典洋著 「敗者の想像力」を読みました。
加藤氏の著作はさらりと読めて、たやすく理解できる代物ではないのですが
その実に豊富な事例に興味が湧き上がります。
例えば鶴見俊輔の隣に手塚治虫、大江健三郎の隣にゴジラが論評されると言う具合。
そんな縦横無尽な話題に付き合いながら、一体全体彼は何を言わんとしているのだろう、と頭を悩ませながら読み進めました。
そもそも題名が意味不明。
「敗者」とはネガティブな立場、認めたくない状態では無かったのか。
その「敗者」の想像する力?
一体、敗れた者が何を想像すると言うのでしょうか?
その行為に意味はあるのでしょうか?
後半を読み進むにつれ、私の疑問はますます大きくなっていきました。
最後の章では長々と大江健三郎晩年の惨憺たる裁判と小説をとりあげた末、次の言葉で終わります。
『人間は負けるようにできている。しかし負けても、打ちのめされたりはしない』
ハッピーエンドの無かった映画をみた時のように、宙ぶらりんな気持ちで閉じた一冊。
その一冊の言わんとしたことが、日本国憲法の前文(憲法の核心部分、自民党改憲草案では全文が削除になっている)をみた時、ようやく腑に落ちました。
これこそが『敗者の想像力』では無いのかと。
決して長くはない憲法前文ですが、中でも私のお気に入りのフレーズはこれ。
『われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいとおもふ』
それはまるで、敗戦の地にすっくと立って、まっすぐ青空を見つめる瞳そのものではありませんか。
徹底的に負けて、負けを受け入れて、なお想像する。
あるべき世界を。
その世界に踏み出す自身を。
それは脆弱なもの、つまり負けをみとめられず、歴史から目を背けるものには、決して見ることの出来ない輝かしいヴィジョン。
日本の戦後は、この「敗者の想像力」によって築かれてきたのでは無かったか。
私はその価値を次世代に受け継ぎたいと思っています。