2021.02.28
「楽しい!って思えるのはある程度難しくなってきてからなんだ。」と言って息子が流体力学に向かってうんうん唸っている。
楽しく食べる、楽しく買い物する、などなど、“楽しく”がつくことは日常にたくさんある。楽しく音楽を聴く、楽しくピアノを弾く、はどうだろうか。楽しく泳ぐ、楽しく走る、楽しく山に登る…。アスリートや登山家の考える“楽しい”ではまるで奥行きが違ってくる。
ベートーヴェンの作品は音楽の歴史上で人間の自由を勝ち取ったと言われている。その中で彼は歓喜しながらも闘い苦悩する。ショパンは美しさでいくら上手に包み隠していても、そこから強い悲しみの香りが突き抜けてきて人の心を刺す。マーラーには悲しみの沼にずぶずぶと引き込まれてしまう。シューベルトは「僕は悲しい音楽しか知らない。」と、さすらいの短い人生を音楽のためだけに生きた。美しい水面がなぜそんなに悲しいかは彼の音楽が教えてくれる。また、モーツァルトのように一見天真爛漫に聞こえる曲も、ふとした翳りの中に悪魔が住んでいる。その“疾走する悲しみ” (小林秀雄)の中に人は自分自身を重ね合わせる。人は喜びだけでなく、苦しみや悲しみを求めて音楽を聴くことで聴く“楽しさ”を味わう。
また、音楽を奏でるときにも喜びや愛と共に、悲しさや苦しさも音楽と分かち合う。場合によっては自分の痛みをさらけ出し、音楽と共有することに救いの“楽しさ”を感じる。そこに到達しようとする練習の勾配は急だ。
レッスンでは「難しい曲を宿題にすると喜ぶ人はピアノが上手な証拠なんだよ!」と言ってはっぱをかけるが、これはホントのこと。“楽しさ”を知る人は求めるものがはっきり分かっているので、難易度に左右されない。小さい生徒さんも名曲の持つ“精神性”は何となく感じると思うので、ただ楽しいだけではない、いい曲を選ぶことをいつも心がけている。冗談や面白い例えを交えて表面的な“楽しさ”を演出しながら、感動にひれ伏す日が来るように手ぐすねを引く。
難しさは曲により人によりそれぞれだが、音楽も他の分野も、技術的な難しさや困難に伴う苦しみがその世界の楽しみに通じていることが多い。本気で苦しみ、そそり立つものにぶつかっていく。更に、たどり着いたところにあるのもただ楽しいものだけではない。
全てを受け入れ、全身全霊で愛し、深く感謝する。駆り立てるのは日常的な喜怒哀楽を超えたところにある人間の能力である“精神性”だ。その時ピアノは“指がよく動いて上手に弾けたら楽しい”を超えて作曲家の思う大いなる世界へと近づくことが許される。スポーツにおいては、“精神性”に支えられた肉体は、限界に挑む人間の偉大さとして美しく輝く。
厳しさの中で出会う“楽しさ”は日常的に手に入る“楽しさ”とは違う顔をしている。
熊本市東区健軍 HEART PIANO ハートピアノ教室