2018.10.26
長くピアノを弾いてきて、楽譜はいつも自分と共にありました。指使いを書き込んだり、注意するべきところをまるで囲んだり、暗譜するときにはその楽譜のページ割で覚えます。また、その時々の出来事や弾いている自分の気分や考えを楽譜は吸い込んでいます。ある曲に取り組み、楽譜と共に時間を重ねる度に新たな思いが追加され、時間を共有しながら新品の楽譜は自分だけのものになっていくのです。長年弾いていない曲でも、ページを開けばすっかり忘れていた出来事まで思い出します。
中学生の頃どうしてもショパンの英雄ポロネーズを弾きたくて一人で楽器店へ買いに行ったピアノピース。今と違って情報の少ない時代、初めて見たその楽譜は衝撃的で、なかなか弾けませんでしたがいくつかの和音を鳴らすだけでも幸せでした。
そのあと買った輸入パデレフスキー版。ショパンの曲と赤茶けてザラザラした紙質の手触りは練習の日々の思い出と一緒に記憶されています。
輸入パデレフスキー版やヘンレ版は劣化しやすく、だんだん何の曲のか分からなくなるほどぼろぼろになります。ピアニストのポゴレリッチは最近コンサートで楽譜を見るようになりましたが、映像に映る彼の楽譜も驚くほど傷んでいます。表紙がはずれ、弾いているあいだにもスルッと滑り落ちてきそうです。
しかし彼ほどの人…。覚えていないはずはない…。ピアノの師でもあった亡き妻と関係あるのではないかと勝手な推測をします。
ポゴレリッチは妻と死別してから演奏活動を何年も停止していたのは有名です。そんな彼が古い楽譜と共に演奏活動するようになった…。彼がぼろぼろの楽譜を譜面台に置くとき、その楽譜でなければならないのでは?それは実は彼女が使っていたもの、いわば形見なのでは?と想像します。楽譜とはそれを使った人の様々なものが織り込まれていきます。彼にとっては、妻と一緒に過ごし、作品についてディスカッションし一緒に音楽の深い世界に踏み入った証。そう考えると彼女の楽譜を置いてピアノを弾くことは彼にとって亡き妻と交信することでは、そして楽譜は時空を超えて愛する妻と会話できるかけがえのないツールなのではと思ってしまいます。
レッスンで生徒さんがどうしても弾きたいと言って「難しいけれど。」と躊躇しながらも取り組まれた曲がありました。時と共に楽譜がどんどん傷み、ページが外れたり表紙がとれたりしてきます。テープで貼っても次々に違う場所が破れてきて収集がつかなくなるのですが、楽譜って本当に演奏者の想いや人生と共にあるんだな…と感傷に浸ります。
さあ、今日もレッスン開始。
「ハイ、始めまーす。」
あれ、やる曲のページがパッと開かない諸君、反省しましょう!
「楽譜がいっちょんそぜとらんよ!」
(熊本弁で「楽譜がちっとも使い込まれてないよ」という意味)
HEART PIANO ハートピアノ教室
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