2017.03.22
大型ゴミ(家具)収集の瞬間はかなり強烈だ。収集車の後部に押し込まれたかと思うとバリバリバリっとすごい音がしてその場で今までモノとして存在していた思い出の家具が瞬間的にただの有機物の破片と化す。思い出が詰まっていようとなんだろうと、モノとゴミの境界線はものすごく儚い。
私にとってまだモノの領域であるヘンレ版のベートーヴェンソナタ集をはじめとするさまざまな作曲家のたくさんの楽譜…。そこには考え抜いた指番号、暗譜のための手がかり、亡き恩師の書き込みなどがある。これらはすべて絶対に手放せない私にとって価値のあるモノ達だが、持ち主にとってこそ価値はあっても他人にはなんの意味もない。
ピアノ仲間の友人も
「あのね、楽譜ってゴミなのよ。」
と力説する。楽譜はなかなか人にもらっていただけない部類の本なのだそうだ。
“あなたが死んだらあなたの持ち物すべてがゴミですよ”
という言葉がちらつく。私がこの世からいなくなったら真っ先にゴミとして浮かぶのはピアノと楽譜だ。ピアノは弾かない人にとっては部屋を占有する大きくてじゃまなモノでしかない。音楽をやらない家族が、うんざりしながら楽譜やピアノを処分している図が目に浮かぶ。
しかし現代社会において非難されがちなモノ達はさりげなく生活に潤いを与える。モノ達は持ち主と対話する。他人にとってはハテナ?というモノでも持ち主にはかけがいのないよりどころだったりする。引っ越しのトラックを見ていると「ああ、鍋やお布団と一緒にそこの家の大事なモノ達が運ばれていくんだな…。」と思う。また、古本屋でいい美術書や専門書を見かけると、持ち主のどういういきさつで売られてきたのかを推察せずにはいられない。
熊本ではまだまだ被災した建物の解体が頻繁にみられる。大型ゴミ収集の何百倍ものショックを持ち主に与えながら解体が行われていく。儚いその境界線のはざまで私も胸が痛む。
実家では100鉢もあろう蘭の鉢植えを大事にしている。春になり、そろそろ温室から屋外に全部移動させなければならないという大仕事が待っている。私はだまってそれを手伝うだろう。
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