2016.09.01
夢千代日記の再放送をテレビで見た。温泉町の芸者夢千代と、ここを訪れる人々の織りなす人間模様。吉永小百合(夢千代役)による日記の朗読がナレーションになっている。
だいぶ前の作品で、キャストが興味深い。もう亡くなった方もおられる。音楽担当の武満徹に目がとまった。「タルコフスキーの映画ほど音楽的な映画はないと思ってました。とても好きでした。」と言うくらいアンドレイ・タルコフスキーに傾倒して、映画音楽にも作品を残している。
武満は究極まで思いつめた “重さ”を芸術家の避けられない宿命と言う。タルコフスキーの作る映画に対して“みんなに代わって贖罪するタイプの芸術家”と表現する。武満自身、いつもバッハのマタイ受難曲を聴いてから作曲に取りかかった。芸術活動とは宿命としての何かを背負うことだという思いが常にあった。
夢千代日記にはほとんど音がないように感じられる。見終わったあと一体どこに武満の音があったのか?舞台となっているこの温泉町の極寒の吹雪とともにどこかへ消えていってしまっている。そして言いようのない”重さ”が後味として残る。それが究極のうまさだということは言うまでもない。
芸者の世界の話だが、これは普通にささやかに生きている人達のそれと共通している。登場人物は皆小さな幸せを望む。それは当然誰にでも与えられていいごく普通の幸福であるにもかかわらず、それをつかむことすら躊躇する。世の中の大多数のつつましい人々は欲深いことは決して望まないし、与えられたものだけに感謝して受け入れるというごくささやかな生き方をすることを自然だと思うものだから。
物語ではそんなささやかな人の目の前にささやかな新たな幸せが差し出される。そして登場人物がその差し出された方をつかむと以前からあった幸せがくずれていく。普通の人である登場人物はそれを自分が悪いと責める。
武満は何もかもを分かって音を添える。黒澤明とは映画“乱”で対立し決別した。「現代の映画は音が大きくなりすぎて、現代人の耳は退化している。技術の進歩と共にいくらでも精巧な音を機械は出せるようになったが人の耳は逆行している。」と言う。深い洞察力で人間の有り様を音で表現した武満徹。1930年東京生まれ、1996年没。今年没後20年になる。