2023.07.03
ショパンを含め、ロマン派バロック期や古典の理論家にとって音楽は1つの「言語」です。音の響きの組み合わせにより、表現します。
ショパンは、弟子達に優れたオペラ歌手を何度でも聴きに行くように勧め、「ピアノを弾きたいのなら、歌うように」ショパンにとっては「歌は音楽の出発、目標でもありました。「声楽」の発想を取り入れていました。
ピアノ技術は1つの手段以外なにものでもないのだから、この手段は音楽を通じて自己表現しなければならないです。
この意味でもショパンは同年代それ以降のピアノ教師のような演奏メカニズムを基づく教え方は、はっきりと背を向けていました。
古典派の教育を受けた世代の教師達は、いろいろな方法(数々の教則本にのっている様な)一つずつマスターすれば良いと考え、指や手や前腕など決められた位置を身につけるために生徒に練習させられ、どう体を使えばどんな音が出るか、指も自ずと訓練されていることは気がつかなかったです。
毎日長い時間をかけて指の体操のような訓練をし、チェルニーやカルクブレンナーその他の作曲家達の多数の機械的な練習曲を繰り返し弾かなければならなかったです。
ショパンは、他と違って独学で、(唯一ピアノの先生であったジウニーはバイオリニスト)編曲に全く興味が無く、あまり狭い職人芸的な見解に反対して、技術の習得はもっと芸術的なものだと主張しています。
🔴触覚と聴覚を研ぎ澄ますこと🔴
ショパンは最初のうちレッスンで教えるのは、この二つでした。
ショパンは、長い指(第2指、第3指、第4指)のボジションを自然で楽に出来るという理由で黒鍵を好みました。
生徒に音階練習をする時、ロ長調、嬰へ長調や変ニ長調に基本的な運指法(1ー2ー3、2ー3ー4ー1、2ー3ー1)をはじめていました。
当時のピアノ教師は、無理な練習を重ねて強制的に「指を均等」にする事をしていました。ショパンは、その逆をいって、指の個性、もともと「不均等」なものこそ多様な響きを生み出すものとして「指が違うほどに響きも違う」ということに、ショパンの弟子に無理のある練習をせずに、色彩溢れる響きの多様性を開花させていきました。
指の均等性「ジュ ベルレ」(真珠をちりばめたような演奏)は、いくつかのピアノ流派にとっては、試金石と言えて、それをショパンはそれを達成するには、音の規則性正しく進行に合わせて全く新しい運指法を用い、音階やアルベジオの時は、パッセージの方向にって軽く手を動かしていきます。
全ては運指法の熟達にかかる。指の造りを利用しなければならないので、手の他の部分、つまり、手首や腕全体も使わなくてはならないです。
カルクブレンナーは、手首だけで演奏しょうと思ってはならないと言っています。
この言葉は、ショパンがもたらした柔軟な演奏を心がけること。同年代の殆どの人は、指の関節のみを用いて、手首はたまにしか使わなかったので、ショパンは、そのなことはガマンが出来なかった。
🔴指は、腕全体に関わっている🔴肩から指先まで一つにつながっている感覚というショパンがもたらした技法の大革命の根本です。
ショパンの曲の作曲に、離れた鍵を弾く時、中心となる指は、第3指ではなく🔴人差し指🔴
ショパンは、ペタルの用い方について、ショパンの作曲技法に決定的な影響を及ぼし、フランスやイギリスではピアノの性能にも進歩があり、右のペタルを踏めば弦の余韻長く響く事が出来るようになり、その為、指の方も基音を離れながら、響きが止まらないうちにその上を軽く弾ける様になっていました。
ショパンは、貴族的でサロンのピアニストの様で、リストは雄弁で演説家で、ショパンは、「ベルカント唱法」を純化して、ピアノの演奏に使い、リストは、ベルリオーズやワーグナーというハンガリー人リストの根底にあるのは、「オーケストラの響き」です。
リストを基盤としてピアノの技法は次々と生まれていきました。肩を積極的に動かして腕全体に演奏をするようなり、そのために思いもよらなかった🔴重力(重量)奏法🔴といえ概念がうまれました。
リストは交響的な色彩、ショパンはモーッアルトの後継者で、ドビッシーの先駆者です。
ショパンは、声楽に通じる流派で、オーケストラの音色に取り入れなかっです。
ピアノの向かう姿勢と手の位置
鍵盤の両端に手が届く位置に座る。肘は白鍵の高さにして、手は、右にも左にも傾かない事。
🔴指をミ、ファ♯、ソ♯、ラ♯、シの鍵盤において手の位置を決めます。
長い指で黒鍵を、短い指で白鍵を、こうすると手が丸くなる。
支点となる人差し指で、へだった音域を弾くために手を二分する。
音楽之友社「弟子から見たショパン」より1部抜粋