2019.12.02
瀧廉太郎と言えば、明治政府から
初のヨーロッパ音楽留学の先駆者。
今や猫も杓子も留学の時代ですが、
当時は、大航海。
満3年の予定。
当時、船で3か月かけ、ようやくドイツに到着。
10月、念願の「ライプチヒ王立音楽院」に入学。
どれ程、嬉しかった事でしょう。
これから!と言う思いだったに違い有りません。
ところが、翌月11月末の夜、コンサートに行った帰り風邪をひき、その後、肺炎、結核に。
つまり、大学に通ったのはたった2か月足らず(-"-)
ドイツは寒い。
地図で見ても北海道より北のフランスのパリより、その北。
私のヴィオラの先生は
「始め、ドイツに留学したが、余りに寒くてイタリアに変えた。」と言われていました。
結局、見知らぬ国の病院で入院。
明治政府からは見捨てられ、
「もう、お前は帰って来い!」と言われるも病床の身で寒い船旅に耐えられるはずも無く、翌年夏までドイツで入院。
病床の身を押してまた船旅で3か月、
10月に東京に帰着。
翌11月に両親のおられた懐かしい大分で療養するも翌年6月に23歳と言う若さで死去。
その4か月前、2月に作曲された有名なピアノ曲が
「憾(うらみ)」
ドイツタイトルで「心残り」
弾いてみたい気もするのですが、
まさに、23歳と言う若さで死んで行かなければいけない瀧廉太郎の「怒り」にも似た無念が漂うこの曲、
ちょっと弾く勇気は無い私です。
余談
滝廉太郎の「滝」
音楽の教科書では「滝」
しかし、瀧廉太郎記念館では「瀧」の字でした。
この辺りは、拘る方は拘る所でしょうが、
ピアノ科の私は全く拘りません<(_ _)>
①では滝、②では瀧を書かせて頂きました<(_ _)>