2017.03.05
ハンブルクを去りベルリンへ。
ベルリンには19年ぶりの訪問となりました。
とはいえ前回は合唱団の演奏旅行での訪問、
実のところベルリンドーム(演奏会会場)と近くの居酒屋しか記憶にありません。
その仄かな記憶に、この数年ニュースで目にすることの多くなった
ベルリンの映像と情報が重なり、やむにやまれぬ気持ちでの再訪でした。
郊外駅(降り間違えた)から宿のあるクーダム地区(西)へ。
市民の足である地下鉄に乗ると街の状態が察せられます。
治安状態や、多様性(あるいは単一性)、人間関係の風通しの良さ(あるいは悪さ)。
一人で歩ける街か、ちょっと緊張する街か。
うん、ベルリンは大丈夫そう。
この街には、20世紀の歴史が深く刻まれています。
第三帝国(ナチス)時代、第二次世界大戦末期の破壊、東西分割、
そしてドイツ統合をへてEUの牽引役となった現在。
その歴史を辿ってみたいと思っていました。
ブランデンブルグ門
ここは1989年前には近づけなかった場所ですが今はすっかり観光の中心。各国からの旅行者の笑顔があふれています。
その直ぐ近くには2005年に開設された
「虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑」があります。
広大な広場に2711の石柱群。これは墓碑を表しているのでしょうか。
その重い過去とは裏腹に、その広場には穏やかな空気が流れていました。
迷路のようになった石柱の間を子供たちが走っていきます。
これは平和な時代の子供たちの姿から、
未来を奪われた地下の子供たちへと思いを馳せて欲しいという建築家の願いなのだそうです。
地下には情報センター(資料館)があります。
最初の廊下には1933年から1945年まで、
12年にわたるホロコーストの経過が詳細に淡々と書かれていました。
淡々と。そう、じつに客観的に。
その次の部屋は犠牲者たちの手紙、家族離散の経過。
そして全ヨーロッパから、強制収容所への移送がいかになされたかという記録。
館内には沈黙が流れていました。
そこは
一人一人が孤独に事実に向き合い、
それを各人の「理性」に刻みつける空間でした。
日本に帰ってからずっと考え続けています。
日独のこの違いは何に起因するのか。
日本人は歴史を「情」で捉えているのではないかと。
しかし個人の「情」に基づいて歴史を見ている限り、
いつになっても歴史は乗り越えられないのではないかと。
「あんな悲惨な戦争はもうこりごり」
「私の祖父があんな残虐なことをするわけがない」
対照的ながら、しばしば耳にしてきた言葉です。
それは素朴な感情としては嘘偽りはないのでしょう。
しかし、世界の中で共通のmemory(記憶)を築くためには
そこに留まっていては真実は見えてこないのでは無いでしょうか。
わたしたちは今一度、個人の「情」から距離をおく、
いわば歴史を科学する訓練が必要なのではないか。
それがドイツから帰ったいま考えていることです。