舟歌 Chopin Barcarolle Op. 60
2016.06.07
ショパンは、人当たりがよいが決して本心を人に見せないタイプの人間だったと言われる。ポーランドを遠く離れ異国の地パリ社交界でその神経質で頑固な強い個性を虚弱な身で支えながら生きぬくためにはそれは仕方ないことであり、まさにそのことでもって自分のアイデンティティーを保ち、音楽の中に凛とした大輪の花を咲かせることができた。崇高な独特の美意識の上に花開いたそのあまりにも華麗で優雅な美しさは人々を魅了する。
舟歌は力強い嬰ハから始まる序奏のあと、12/8拍子の揺れてはかえすリズムを左手が静かに奏で始める。p(ピアノ・弱く)で奏でられる嬰ヘ長調の穏やかな旋律は転調を繰り返しながらイ長調に降り立つ。第2主題はテンポを早めながら嬰ト長調、嬰ヘ長調へと移り変わりながら様々な景色を聴くものに見せていく。強くはないが十分にきらめく日差しの中を速度を変えながら進む舟。そこで見える景色は聴く人によって様々だろう。ここでも常にショパンは笑みを絶やさない。
そしてもう一度イ長調に戻ると曲はそこで立ち止まる。ひとつひとつをかみしめるように不安定な和音を繰り返しながら嬰ハ長調にたどり着くと嬰ハの音を通奏音としながらショパン独特の華麗で繊細な高音部のパッセージを右手がしばらく聴かせる。再び嬰ヘ長調に戻ると今度はf(フォルテ・強く)で最初のメロディーを再現しながら一気に頂点へと駆け上がる。
ここで彼は頂点での華々しいカデンツから静かなコーダへと直接つながず、103小節目~110小節目までの8小節からなる楽句(第2主題後半)を挿入する。嬰ヘ音を貫くこの部分で彼は本音を言う。かけがえのないものへの限りないいとおしさと躊躇なく手放そうとする潔さ、そしてあきらめと強烈な執着、相反する気持ちへの戸惑い。舟歌はそのほとんどが長調で書かれているにもかかわらず、楽しい曲だと感じる人はまずいないだろう。美しさで身を守ったショパンから不覚にもにじみ出た本音が聴く人を心の奥の湖に連れて行く。
そして最後は不思議と決して暗くはないむしろ心地よい温かい哀しみに包まれ、ついにその葛藤が結局は宿命に従うという決意に変わり、真の強さに帰着して曲を閉じる。
どんなに立ち去りがたくても舟は必ずやってくる。人は乗りこむとき必ず振り返るだろう。光に包まれて何度も何度も岸を振り返り眺めるのだ。