2020.10.12
2020年10月。樹齢100年以上になる銀杏には、昨今の温暖化で枯れ枝が目立ちます。それなのに黄金色の葉は太陽の光を受けて命の限りを輝かそうとしています。思わず立ち止まって目をつぶる私を、通行人が不思議そうに見ていきます。ふと、どこからかピアノの音がしてきます。そしてピンポーンとインターホンの音…。
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カンナが道子せんせいの成年後見人になって5年経った。子供がいないせんせいのお役に立てることならと、40歳になったのを機に承諾したのだ。たくさんの生徒に慕われ、85歳まで現役でピアノを教え続けたせんせいは90歳になり、カンナは45歳になった。
道子せんせいの門下生だったカンナは、以前からせんせいの人柄に憧れていた。レッスンはもちろん音楽家としての覚悟や生き方が素晴らしかった。せんせいの耳は鋭く、演奏家の知名度に関係なく評価は的確だった。音大へ進むときも卒業してから教室をやっていく中でも、家庭の事情があるカンナをせんせいはいつも陰になり日向になり支えた。壁にぶつかって泣きながら電話をかけると、せんせいは時には厳しく時には優しく、長い時間話を聞いてくれた。
カンナはせんせいの生徒を引き継いで午後からレッスンで忙しい。今日も午前中のうちに車で10分の先生のお宅へ様子を見に行く。せんせいはもう玄関まで出てくるのさえも大変なのに、一人暮らしをしていて、毎日ピアノを弾く。弾いていない時間はいつも音楽を聴いている。
「カンナちゃん、ピアノ弾きはピアノ曲以外あまり聴かない人が多いけど、声楽曲や弦楽四重奏曲などいろんな曲を普段から聴いてね。私も若い頃はとにかく練習に夢中でピアノの方からばかり音楽を見てきたけれど、音楽の真髄と真正面から向き合えるようになるには時間がかかったように思うわ。それにこの年になっても知らなかった素晴らしい曲に思いがけず出会うと、新たな領域の細胞が活性化して音楽を深く感じようとするのが分かるのよ。」
今日はベートーヴェンの《弦楽四重奏第16番op.135》第三楽章が流れてくる。変ニ長調で書かれたこの楽章の主題は主音の♭レから音階を下へなぞっていく。♭ラからは上向に転じ、ファへ到達した時のわずかなエネルギーはひとつ下の♭ミという心地良いソファにもたれかかる。これ以上ないシンプルな作りなのに、美しく去っていくものの潔さ、凛として別れを言う時の張り詰めたものがある。op.131、op.132の大曲の次に来るこの小さく簡潔に書かれたop.135をせんせいはこよなく愛する。
「この曲は若い頃聴いた時はあまりピンとこなかった。でも今この第三楽章は特にいつまでも聴いていたいくらい素晴らしい…。この楽章には “赦し”と“厳しさ”が同居しているわ。人生において人は大なり小なり必ず過ちを犯すけれど、人生に真摯に正直に向かい合っていれば幕を下ろすときに胸を張っていられる。この曲が似合う終わり方をしたいわ。カンナちゃん、私のお葬式にはこの曲を流してね。お願い。」
「そんな、せんせい…いやです。まだまだ長生きしてください。私ずっとこうやってせんせいと音楽の話をしていたい…。」
カンナは涙が止まらなかった。
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10月のある日の白昼夢です。
※白昼夢はフィクションです
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