2018.02.26
スポーツは速さを競う。精密に計測されたタイムは0コンマ何秒の世界で順位を決める。難所だからといって簡単にゆるめるわけにはいかない。
一方音楽の世界の速さは相対的だ。巨匠の演奏ではゆったりとおおらかだと思った演奏がメトロノームで測ってみると意外と速かったり、かたくなにテンポを一定に保って確固たる音楽を構築していると思った演奏も、実際は結構テンポが揺れていたりする。うまさのマジックだ。
また、現代人と作曲家の時代ではその感じ方は変わってきているかもしれない。
先日ピアノ仲間が「昔の人と今の人ではテンポ感が違うんじゃないかな。速いったってせいぜい馬車の速さだったっていうから。作曲家は違うテンポ感を感じていたかもしれない。」と言う。確かに…。
自転車のかごに入ってサイクリングする速度感しか知らないポチがいきなり高速道路を行く車の窓から顔を出したらびっくりするだろう。((^_^;)
アンサンブルという視点としてのテンポ感はまた違う。ソリストを乗っけて山の稜線をアクロバティックに走っている感覚になる。
自分一人なら落っこちようがどうなろうが信じるテンポで突き進めばよいのだが、伴奏者は冷静にソリストの具合と音楽の許す範囲ぎりぎりで安全なテンポを保たなければならない。
例えば椿姫のコロラトゥーラのところは音楽の高揚感に入り込んで伴奏者だけがテンポアップしてソリストを落っことしてしまってはいけないし、モンティの『チャールダーシュ』やサラサーテの『ツィゴイネルワイゼン』でピアニストが暴走すれば振り返るとソリストは遥か後方に落っこちている。
逆にソリストがピアニストを置き去りにすることもある。ヴァイオリンニストのギトリスの伴奏は難しいだろうと想像する。
合わせようとするほどギトリスはスルッとすり抜けていってしまう。年齢的にも才能的にも確立された素晴らしい音楽性を持っている彼にはもうテンポ感も拍子感も必要ないようだ。
速さの感じ方には違う要因もある。フィギュアスケートの演技は素晴らしい演技の連続だ。とにかく人間業ではない技がテンポよく次々と繰り出され、その展開のはやさには舌を巻くしかない。
目を見張りながらしかしこの感覚はただフィギュアスケート界の進歩だけでなく、自分の年のせいではないかという思いがよぎる。
演奏家はだいたい年齢とともにテンポが緩やかになる。バルトークはテンポ感に厳しく、自分の作品はこの早さで、というのがかなりきっちりしていて、○分○秒、と所要時間を楽譜に記していたが、彼自身、演奏のたびにかなりばらつきがあったし、晩年は自らが表示していた演奏時間より遅くなったという。
私は最近、秒針が以前より早く感じる時があり、はっとする。年齢と共に絶対音感ならぬテンポ感もかなり変わるのは確かなようだ。
熊本市東区健軍
ハートピアノ教室