2012.06.21
先日ピティナピアノコンペティションのある地区予選のD級を見てきました。課題曲の一つに有名なドビュッシー作曲の「亜麻色の髪の乙女」があり、何種類かの演奏を聞くことができました。
一般的にコンクールになると、少し自己主張を抑え、模範的な解釈の演奏を模索する方が多いように思います。それは数名の審査員の平均点で合否が決まる為、極端に好かれたり、或いは嫌われるようなことをして、特定の審査員の点数が合否に大きく影響する事を避けたい心理からくるものかと思います。
その結果、どのように感じ、どのように表現したいかではなく、どう表現するのが正しいのかという方に多くのエネルギーが注がれている感は否めません。
もちろん学習という観点から見て、その事への意義は十分に分かってはいるつもりではありますが、それだけではもの足らなさを感じるのは私だけでしょうか。
この日、前述の課題曲を5名ほどの参加者が演奏し、その内の2名の全然タイプの違う演奏に、私はそれぞれとても感動致しました。
私の指導している解釈とは全く違いますし、必ずしも楽譜に忠実とは言えないところもありましたが、自分にはない新鮮さを感じることができ、正しいか正しくないかではなく、未知なものに出逢った喜びを感じることができました。
それぞれ音色も良く、テクニックに大きな問題は感じませんでしたが、一人は合格し、もう一人は不合格でした。
しかし私は不合格の参加者、そしてその指導者に対しても、自らの心・感性に対する誠実さに対し、エールを贈りたいと思います。
音楽に限ったことではありませんが、人の心を揺さぶるのは本当のことだと思います。勉強は必要ですが、演奏は「私はこう表現することが美しいと思います。」という赤裸々なものであって欲しいものです。実際コンクールでは、どう評価するかは別にして、上手でも嘘っぽく心に残らない演奏も数多く見られます。
みなさんはこの話をどのようにお感じになられるでしょうか。それではまた。