2024.09.08
ドビュッシーは、1862年8月22日にフランス🇫🇷パリの近くで生まれ、5歳のときに父の仕事のためにパリに移り住み、パリで成長し、音楽を学び作曲家として一生を過ごしました。今年、2024年は、パリでオリパラリンピックが開かれました🍀
ドビュッシーの先祖に音楽家はいないそうです。父親はさまざまな仕事を転々とし、暮らしぶりは、決して豊かとはいえませんでした。そのような家庭に育ったドビュッシーは、パリの庶民的な地区を何度も引っ越し、最後には、上流階級の人間が多く住むパリの16区の高級住宅地に移り、そこの墓地に入りました🪦。
ドビュッシーは長男でしたが、弟や妹たちと叔母に預けられることがありました。その叔母がドビュッシーにピアノを習うきっかけを与えたそうです。
彼は、9才でピアノを始め、10才のときには、名門、パリ国立高等音楽院に入学しました!
かなりの才能の持ち主でした。
生まれながらにして豊かな才能を持っていた彼は、それを正確に表現するために、音楽院で12年間学びました。
貧しかった彼は、サロンで上流階級のご婦人方の歌の伴奏をして、お金を得ました。
彼はサロンで上流の人との友好を深めることによって、芸術や文化などの知的財産を身につけました。
ドビュッシー一家の生活からでは得られないことを、サロンで学んだのです。
ドビュッシーは何人かの女性と付き合い、結婚を2度しましたが、不幸な事件もありました。
1905年に、2人目の妻エンマとの間に、愛娘シュシュが生まれ、やっと幸せな生活が訪れます。ピアノ曲集「子供の情景」は、シュシュのために作曲されました。
晩年のドビュッシーは、第一次世界大戦と、彼自身の病気が重なり、おまけに上流階級出身の妻エンマは、恐ろしいほどお金を使ったので、経済的にとても苦労しました。
アマチュア向けに短く、弾きやすく、親しみやすい曲を作りました。自分の芸術も大切ではあっても、売れる曲を作って生きていくことも同じように重要でした。
ドビュッシー最後の作品、「炭火の暖かさに照らし出された夕べ」は、彼が亡くなる1918年3月25日の前年の冬、炭を買うお金の代わりに炭売りの業者に渡した楽譜だそうです。
ドビュッシーが暮らしたパリの町を、いつか歩いてみたいです🌰🌰🌰