2024.07.08
シューマンが生まれた1810年には、「ピアノの詩人」と呼ばれたフレデリック・ショパン(ポーランド)が、前年の1809年には作曲家、指揮者として有名な、フェリックス・メンデルスゾーンが、翌年の1811年には、「ピアノの魔術師」と呼ばれたフランツ・リストが生まれました。
この数年に、ヨーロッパ音楽のロマン派を代表する作曲家が、次々と生まれたのです。
シューマンは、特に歌曲とピアノ曲に才能を発揮した作曲家で、妻であるクララへ情熱的な愛をそそぎながら作曲家人生を歩みました。
シューマンは、1810年に、今のドイツ🇩🇪にあるザクセン共和国に生まれました。
5人兄姉の末っ子でした👦。
父は出版業を営み、母は詩を書くという文学的な家庭に育ち、彼もまた文学に没頭します。シューマンは幼いころから音楽家として育てられたわけではありませんでした。しかし、7歳のときにベートーヴェンの交響曲を聴き、感動し、自分でも曲を作ったそうです!
さらに9歳のときにモシュレスという音楽家のピアノリサイタルに連れられて圧倒されます。この体験がシューマンをピアニストに向かわせたといわれています🎹
ギムナジウムといわれる中高一貫校では、自分で「音楽病」と言うほど、詩と音楽を楽しみます。成績も大変優秀でした。
良き理解者であった父が亡くなり一時は法律の道を目指しますが、音楽をあきらめることはできず、ベートーヴェンやバッハ、ハイドンなどの研究をしました。
友人と酒やタバコを楽しみ、葉巻たばこをくわえながら、ピアノに向かうことが多かったそうです。彼はかなり金使いが荒く、スイスやイタリアを旅した時も母に旅行代金を払ってもらったそうです。
彼は、フリードリッヒ・ヴィークという教師にピアノの指導を受けますが、ヴィークの娘がのちに彼の妻となるクララです。クララは幼いころから天才ピアニストとよばれ活躍しました。
始めは兄妹のようだったシューマンとクララでしたが、次第にひかれあい結婚の約束をします。しかし、シューマンの年収は、クララの半分、入ってくるお金は酒やタバコに使い切る、そして何より、精神的に不安定な彼と愛娘との結婚に、ヴィークは大反対しました。
2人は何年もかけて裁判まで起こし、やっと結婚したのです。
シューマンは、愛するクララのために多くのピアノ曲を書きました。「幻想小曲集」「子供の情景」「クライスレリアーナ」などです。
2人が結婚した1840年は、「歌曲の年」といわれ、「ミルテの花」「詩人の恋」など、一年で120曲以上作曲しました。
彼らには8人の子どもが生まれました。クララは、子どもたちを育て教育を受けさせ、また、シューマンの医療費を支払うために演奏会を増やし働きました。
シューマンも大作を作曲して収入を増やそうとしました。愛する妻の誕生日には、高価なグランドピアノを贈りました。
しかし、次第に健康を害していき、幻覚、幻聴、言語障害といった症状が現れ、ついには施設に入ります。
施設では、読書や散歩をし、家族や友人に手紙を書き、ピアノを弾いたり、そして良き理解者であり友人だった作曲家ブラームスと会話をして穏やかに過ごすこともあったそうです。
しかし、彼の身体と精神は回復することなく、1856年7月に46歳の生涯を閉じました。
クララと音楽と、ともに歩んだ人生でした🍀