2024.05.01
「作曲しない一日というものは想像もできなかった」と言う言葉を残したプロコフィエフが、脳出血のため61歳で亡くなったのは、1953年3月5日でした。
寒さの厳しいモスクワで冬場に花を探すのは難しい。だが、プロコフィエフの葬儀に花が何もなかった理由はそれだけではありませんでした。
彼が死去した3時間後に、ソビエト連邦共産党中央委員会書記長のスターリンが74歳で死去しました。モスクワじゅうはもちろん、それ以外からもスターリンのために花が集められました。群衆はスターリンの死を悼むためにクレムリンに詰めかけました。
花の無いプロコフィエフの葬儀に参列したのは、作曲家ショスタコーヴィッチら30人足らずでした。
サンクトペテルブルク音楽院時代から不協和音を追求していたプロコフィエフは、ロシアの音楽界とはあらゆる点で意見が合わず、ロシア革命の翌年、1918年にアメリカへ亡命。その際、日本を経由して、東京と横浜でリサイタルを行い、日本の音楽界に大きな影響を与えました。
アメリカ、ヨーロッパで成功を収めたプロコフィエフは、1936年にモスクワへ戻ります。
ロシア革命後にソビエト連邦となった祖国は党の幹部が理解できない先進的な音楽を否定しました。プロコフィエフの音楽も「不快な音楽と批判されますが、彼は表面上は刺激しないように活動しながらも隠れた抵抗を音楽の中に仕掛けていました。
音楽好きであったスターリンは、よく音楽界に足を運んだそうです。演奏会後に楽屋を訪れたスターリンは、バイオリニストに向かって「○小節目の音程が1/4低かった。」と、したり顔で指摘したそうです。周りの幹部たちは、“スターリンの耳の良さ“をほめそやす。ここで「いえ、音程は正確でした」などと反論しようものなら、音楽家としての生命を絶たれてしまいます。バイオリニストは、反省の言葉を口にし、スターリンを見送りました。
また、共産党書記の、ジダーノフは、ピアノが弾けて、自らをピアニストと呼ばせるほどでした。それだけに、コンプレックスも混じって音楽家への批判は苛烈でした。
そんな大変な時代を生きたプロコフィエフの音楽は、少々とっつきにくいところもありますが、バレエ音楽「ロミオとジュリエット」は、ドラマ、映画にもなった「のだめカンタービレ」にも使われ、とても印象深いメロディーです♪