2021.05.21
幻想即興曲 嬰ハ短調は、作品番号が66
遺作です。
遺作なので、ショパンの生前には、
出版されていません。
彼は、遺言で公表を控えるように
友人フォンタナに頼んでいました。
しかし、その遺言に叛いて
フォンタナは勝手に肯定して
出版してしまいます。
このフォンタナの功罪?により
私たちは、ショパンの想いとはうらはらに
この曲の素晴らしい恩恵に
浴することが出来ます。
作曲家と同時代に生きていたら
作品の恩恵を、受けられなかった!
という意味においては、
以前、私のブログにも取り上げた
『「エリーゼのために』
と共通するものがあります。
実際に作曲されたのは、1834年頃と
言われていますので、
ショパン24歳ごろの作品です。
前回のブログで取り上げた
革命のエチュードを書き上げた後
パリでの演奏会を成功させ
作曲の面でも、
シューマンの一般音楽新聞で
「諸君、脱帽したまえ、天才だ!」
と評されている頃です。
1835年のフランスの旅券が
発行されていることからもわかるように
パリに居を構える決心をしたようです。
『ショパンのポロネーズ』
同郷デオフィル・クビィアトコフスキ作
この頃ショパンは、チェコの
カールスバートに向かいます。
生涯最後となる両親との
再会を果たすために。
パリへ戻る途中彼は、
ドイツのドレスデンで、ワルシャワ時代の貴族
ボジンスキー伯爵一家に会います。
そこで16歳になっていたマリアに再会し
恋に落ちます。
マリアにもボジンスキー家にも
彼のプロポーズは、受け入れられ
婚約となります。
しかし、ショッパンの健康状態が、
非常に悪くなり、
この婚約は世に知られることなく
無期限の延期
そして
ボジンスキー家からの婚約破棄により
結婚は、ついに現実のものと
なりませんでした。
ショパンは、マリアからもらった
薔薇の花・マリアとその母からの手紙を
大きな紙包にまとめ、
その上に、
『我が悲しみMoja bieda』
と記しました。
そして1836年
ジョルジュ・サンドとの出会いが
その後の彼の人生を
変えていくことになります。
この幻想即興曲を演奏しました。
私のYouTubeをご覧ください。
https://youtu.be/UGKkvUSEg_0