2024.01.04
お正月休みに、小学生の息子と一緒に映画を観てきました。
『窓際のトットちゃん』です。
息子は、トットちゃんの本が大好きで、2年生のときに初めて読んでから何度も何度も、本がボロボロになるまで読んでいます。
最近はトイレに置いていて、必ず日に一度はページをめくっています。
「ともえに行きたいな〜」といつも言うのです。
映画は久しぶりでしたが、本当に最高でした!
私も子供の頃にトットちゃんは読んだし、もちろん楽しいお話だなとは思っていました。
ところが、自分が親になり、曲がりなりにも「先生」と呼ばれる職業に就いている今、改めて見ると、涙、涙でした。
校長先生の「君は本当に良い子だね」にも号泣したし、やすあきちゃんのお母さんが、初めて息子が服を泥だらけにしてきた日にこっそり泣く姿にも号泣。
トットちゃんのお父さんが「僕のバイオリンで軍歌は弾けない」というと、お腹が空いていて食料が欲しくてたまらないはずのトットちゃんが「私、パパのバイオリン大好き」と言うシーンも泣いてしまいました。
歌を歌っているトットちゃんとやすあきちゃんが軍人さんに咎められ、歌の代わりにリトミックのステップで音楽を奏でるのも、ああ、本当に音楽は素晴らしいし校長先生の教えが根付いているのだな、一生の宝物だな、と胸が熱くなりました。
校長先生は実在の人物で、ともえ学園が燃えてしまった後、私の母校でもある国立音楽大学の幼児教育科の立ち上げにも携わっています。もちろん、直接の接点は何も無いのですが、映画を見て、なんて素晴らしい先生なのだろう、教育ってこういうことなんだ!と思いました。
トットちゃんは最初に通っていた学校をクビになっています。
ともえの校長先生と初めて会ったとき「どうして皆、私のこと困った子だ、って言うの?私はトットちゃんなのに」と言うのです。
それに対して校長先生は「君は本当は良い子なんだよ」と返すわけです。
子供を見るときに、問題行動を指摘するという否定から入るのか、本当は良い子、わかっているよという肯定から入るのか。
たったそれだけのことなんだけど、子供にとっては本当に大きな事なんですね。
校長先生のように、出会った全てのお子様を否定せず、その子にとっての居場所であり味方になれるよう、そのための「道具」として私には「ピアノ」があるのだ、と考えています。
トットちゃんが肥溜めに財布を落としてしまうエピソードも、校長先生は叱りません。
ただ、トットちゃんが覗いていた網の肥溜めの蓋が、翌日にはコンクリートの中身が見えない蓋に変わるのみです。
これも、今で言う「合理的配慮」に当たるでしょう。
足が悪いことを気にして、みんなとお散歩に行けずいつも本を読んでいるやすあきちゃんのエピソードも同じです。
校長先生は「一緒にお散歩行こう!」と無理強いすることは、決してないのです。
ただ、翌日、素敵な図書館が作られるのです。これも、なんて自然で素敵なことなんだろう、と思いました。
背の小さい高橋くんのエピソードもそうです。「自信を失わないように、どれだけ努力しているのか分からないのですか」と校長先生は若い先生を叱るのです。
これも、今で言うところの「自己肯定感」でしょう。でも、校長先生は、直接高橋くんに「自信を持て」とは言わないのです。考えて下準備をして‥
その子のために何が出来るのか考える、ということが教育なんだなと思いました。
やすあきちゃんとトットちゃんがお相撲を取るシーンも素敵でした。
子供たちのことを決して否定しない校長先生が「やめよう、危険すぎる」と止めるのです。
何でもやって良いわけじゃない、危険なことは、止める。
そして「土俵を変えよう」と言うのです。
土俵を変えよう、なんて素敵な言葉でしょう!
お相撲はできないよ、腕相撲にしよう、だったなら、子供たちはガッカリしたでしょう。
「土俵を変えよう」この一言で、子供たちをワクワクさせつつ、安全な行為に誘導しています。
小林宗作先生のこのような教育は、今現在ようやく指摘されてきた「個」を認める教育に、他なりません。
学校は、残念ながらまだまだ「全体指導」か主流のようです。
ピアノのレッスンは、一対一なので、「個」を大切にできると思うのです。まだまだ未熟ですが、小林宗作先生を理想として、頑張っていきたいと思います。