2016.04.04
先日、教室名の由来は
「ボッティチェリの春」であるとご紹介しました。
実は、私は大のヨーロッパ好き、イタリア好き!
絵画だけでなく
建築やガラス工芸品などが
好きで好きでたまらなく
何度もヨーロッパに行っています。
音楽も美術も芸術であり
通ずる部分が多いと思います。
先日、上野の都美術館で開かれている
ボッティチェリ展に行ったことは
「教室名の由来」でも書きましたが
今日はさらに詳しく
突っ込んで熱く語りたいと思います!
この展覧会は、イタリアだけでなく
全世界から集められた彼の作品と
師匠のフィリッポ・リッピと
息子のフィリッピーノ・リッピの作品が
一堂に会しました。
今回展示されたものも
フィレンツェのウフィツィ美術館や
ミラノのポルディ・ペッツォーリ美術館などで
実物は見ているのですが
昔の宮殿が美術館になっているのが殆どの
ヨーロッパでは
大きな美術館の中を巡っていると
どれも素晴らしいので目が麻痺してきて
ダ・ヴィンチの「モナリザ」のようなものでない限り
あまり記憶に留まらないのです。
が、来日した時は
日本語の解説も丁寧に書いてある資料が見られるので
現地で見るよりもむしろ
色々な発見があり面白いのです。
ボッティチェリは
15世紀後半から16世紀にかけての
初期ルネサンスの代表的な画家で
本名はアレッサンドロ・ディ・マリアーノ・フィリペーピと言い
ボッティチェリと云う名前は
兄が太っている事から付いた
「小さな樽」と云う意味のあだ名で
彼もそう呼ばれるようになったそうです。
彼は、皮なめし職人の4人兄弟の末っ子として
フィレンツェに生まれました。
15歳でフィリッポ・リッピ
(修道院長時代に修道女と駆け落ちした女好き)
のところに弟子入りし
後にフィリッポ・リッピの息子である
フィリッピーノ・リッピが彼の弟子になりました。
なので、彼ら3人の作品は
特に「聖母子」の絵は
きわめてタッチが似ているのです。
当時、フィレンツェは共和制でしたが
銀行業などで財を成した
メディチ家が権力を握っていて
ロレンツォ(豪華王)の庇護の下
沢山の絵を描きました。
丁度その頃
ロレンツォの弟のジュリアーノが
パッツィー家の陰謀で暗殺され事件が起き
宮殿の中庭に面しているテラスから
首吊りされたパッツィー家の人たちの様子を
書かされたりもしています。
ロレンツォの死後
メディチ家の贅沢三昧の暮らしに批判的だった
修道士の サボナローラが
フィレンツェからメディチ家を追い出し
神権政治をしました。
彼は、贅沢品、非宗教的な美術品などを没収して
シニョリーア広場
(後にサボナローラ自身が 処刑される広場)
で燃やすという 「虚栄の焼却」を行ったりして
悪名高き教皇
アレクサンデレ6世(チエザレ・ボルジアの父)
により破門されました。
結局、それまで彼の説教に耳を傾けていた市民にも
反感をかい 処刑され火で焼かれ
遺灰はアルノ川に流されてしまいます。
彼の命日の5月23日には
処刑された場所に
埋め込まれているプレートに花が手向けられ
当時の格好をしてアルノ川まで
行進するイベントが行われます。
ちなみに
このサボナローラが修道院長をしていた
サンマルコ修道院には
彼の遺品が展示してあり見学する事が出来ます。
このサボナローラの出現は
ロレンツォの息子である教皇レオ10世が行った
「聖職売買」や
それを買えば、罪が許され天国に行けるという
「免罪符」に反発して起こした
ドイツのマルティン・ルターの
「宗教革命」に繋がっていきます。
長くなりましたが、ボッティチェリの話に戻ります。
彼はサボナローラに傾倒し
それまで明確な輪郭線と
繊細でありながら古典を感じさせる
優美で洗練された線描手法の
人文主義的な傾向が強かったのが
神秘主義的な硬質で神経質な表現へと
作風が一変してしまいます。
そして、人気が急落して、筆を折り
孤独の内に死去します。
それゆえに四百年間もの間忘れ去られていて
19世紀末にやっと認められるようになったのです。
今回は有名な代表作の
「プリマベーラ」と「ビーナス誕生」
は勿論 きていませんが
「バラ園の聖母」と「書籍の聖母」
の美しさにはあらためて感動しました。