2014.10.25
「演奏とは、器になること」
などと、妙なことを考えていました。
今でこそ、クラッシック音楽の世界では作曲家と演奏家とが分業になっていますが、本来この2つは同一人物によってなされていたんですね。
例えばバッハ。彼はライプツィッヒでの最初の数年、礼拝のための新曲を毎週仕上げ、それを日曜日に演奏するという生活を続けていたといいますし
ベートーヴェン・モーツァルト。彼らも演奏会に合わせて新曲を作り、出来上がるやいなや自分で披露、という事がしばしばあったようです。
自分で作ったものを自分で演奏する、考えてみればその方が
自然なスタイルです
よね。そして、そこには演奏者の解釈など入り込む余地はなかったわけです。
今は大変ですよ〜。
演奏家は、時代も国も違う歴史に名を連ねる方方の作品や、時には作曲家自身が演奏不可能な難曲にも取り組まなければいけないわけですから。
そして、そこに解釈という正解があって無いような、曖昧なものが入り込んでくるわけです。
私は、演奏家の仕事の一番大事な部分は
「その作品の本質を過たず再現すること」だと思っているのですが、これがそう簡単じゃないんですよ。
再現するためには、もちろん作品や作曲家への共感が不可欠なわけですが、過ぎたるは及ばず。
演奏家の思い入れが強過ぎるあまり、共感ではなく作品の本質から逸脱した演奏者の勝手な自己表現になってしまうこともあるように思います。
この
バランスが難しいですね。
そこで『器』という発想に思い至ったわけです。
音楽作品というお料理を盛る器。
あくまでお料理を大事にしつつ、それを引き立て、聞き手のもとへと運んでいく『器』。
そういう、演奏をしたいものです。