2025.05.28
島に降り立って、まず気づいたのはその音でした。
人影のない道のここかしこから聞こえてくる音。
時折り観光地や駅のスピーカーから鳥の囀りを耳にすることがありますが、それともまた違うような、、、そもそも此処は観光地ではないし。という疑問は、やがてガイドさんの説明で解明されました。ここ大島はかつてハンセン病患者が強制隔離された歴史を持つ島。今も数十名の元患者さんが住まわれているのですが、その中には後遺症で視力を失った方もおられて、その道標として音を流しているのだそうです。
ハンセン病を知ったのは中学生の時でした。
当時わたしはキリスト教系の学校に通っており、その教団のシスターがハンセン病療養所にご奉仕に行かれたとの報告会があったのですね。医薬品が足りていないという話。病変した傷痕の生々しい写真。その悲惨さと怖さは中学生であった私の記憶に深く刻みつけられました。
それから幾年月。やがて2000年をむかえ、ようやく国による強制隔離(1996年に撤廃)と差別の実態が知られるようになり、2010年にはこの大島が瀬戸内芸術祭の参加島として広く開かれるようになったことにより、私も訪れる機会を得ました。
ハンセン病は感染力が
非常に弱く、1943年には特効薬が開発され、1950年代にはすでに治療法が確立していたと言われます。この事実は私に中学生の頃の記憶を違う形で呼び起こしました。私がハンセン病の話を聞いたのは1980年代。すでに治る病気、強制隔離の必要のない病気であったにも関わらず、国内で公然と人権侵害が行われていたこと。宗教者がそれを批判するのではなく「悲惨で、可哀想な人々」と伝えたこと。当時の大人たちに他意はなかったでしょう。が、少なくとも中学生の私は「恐ろしい病気」と受け止めたこと。
胸の奥がぎりりと軋みました。
芸術祭の中でも一際メッセージの強い作品が並びます。
もちろんアートとして制作者の内で反芻され昇華された作品たちです。望郷の念、自由への憧憬、残された感覚を研ぎ澄まし創作活動にかけた元患者の姿、そして怒り。それら美しく、強い作品が瀬戸内の静かな島に展示されていました。
そして、異彩を放つ一つのオブジェ「解剖台」。
(当時隔離に際して死後解剖の許諾書にサインをさせられた)
一度は海岸に埋められたにも関わらず、第一回目の瀬戸内芸術祭開始直前に砂浜から現れ出たという解剖台。貝殻のこびりついたそれは、物言わぬ証言者として圧倒的な存在でそこにありました。