2024.12.30
以前から「音楽は情操教育」という認識に違和感を感じていました。
今日はその違和感についてもう少し深く考えてみたいと思います。
違和感の原因は二つありました。
まず音楽は情操にだけ働きかけるものなのか?という疑問。
この場合の音楽は主に欧州文化圏で培われた文化としての音楽なのですが、ギリシャ時代以来、それはリベラルアーツの一分野、数学に分類されていました。
つまり音楽はこの世界の調和を知るための学問だったわけです。そののち時代と共に、音楽は神の秩序を体現するものになったり、修辞学に基づいて言葉との繋がりに重きをおく「感情を呼び起こす」作法となったり、さらには社会常識へのプロテストとして警鐘を鳴らすこともありました。またあるいは、その効力を知る権力者によって統治を強固なものとするために利用もされました。
このような歴史を辿っていくとき、もちろん私も音楽に情操〔美しいもの、優れたものに接して感動する、情感豊かな心(大辞泉)]の要素があることを否定はしないのですが、さりとて音楽=情操とする認識には、音楽文化の一部しかとらえていないような心もとなさを覚えるのですね。
そして二つ目の疑問、それは情操は教育されるものなのか?という問いです。
先にあげた情操の語義、「美しいもの、優れたものに接して感動する、情感豊かな心」。 私は、これは多くの人が生まれながらに持っている素質ではないかと考えています。
例えば、朱に彩られた夕空に目を見開き、桜吹雪の道に笑みをこぼす。身の引き締まる冬の霊山に言葉を失い、氷上に舞い上がるスケーターのジャンプに歓声を上げる。胸底から湧き上がってくる歌ごえに鳥肌が立って涙が溢れる。
これは「(他者が)教えられる」ものでしょうか。
通常、教育と訳されるeducationの語源はラテン語で「能力を外に引き出す」の意味なのだそうです。
わたしは音楽を愛する先輩として、子どもたちの持って生まれた感性を大事に守り、それを外へと引き出すお手伝いならできるでしょう。しかし情操を「教える」ことはできないと思うのですね。
どうやら、私の長年の違和感はこのあたりからきていたようです。
そして、私は「(昨今の)教育」が、むしろ感性を押し殺す方向にいっているのではないかという危惧を抱いてしまうのですね。
じきに新しい年が始まります。
来年もブレずに、やっていきたいと思います。