2024.09.19
遅めの夏休みをいただいて、トスカーナ(イタリア)地方 オルチャ渓谷の小村で開かれたマスター・クラス(バロック・ヴァイオリン&アレクサンダー・テクニック)を聴講してきました。
それはそれは幸せな時間でした。
講師Amandineのヴァイオリンに心が震え、若い音楽家たちの音楽への直向きさに、私自身が若かった頃のワクワク感を取り戻しました。
ただ、そんな幸せな時間の間にも湧いてくる一つの疑問がありました。
「何かが根本的に違う」
日本で西欧音楽を奏することに葛藤があります。
それは言語や風土、音響の違いだけで解決できるものではなさそうに思うのですね。もっと根本的な何か。
今回は特に「イタリア」という国の特質もあったと思うのですが、
身体から突き上げてくる喜びがそのまま音になっていくのを聴きました。
日本人としての私のやり方、つまり自分のキャパシティの中で丁寧に緻密に繊細に作り上げていく、ではなく、まず最初に「込み上げてくるもの」があって、そこに形を与えていく。
本番で失敗しないように練習するのではなく、表現したいものを形にするために試行錯誤するといっても良いかも。
教養?お勉強?アクセサリー?
いえいえ、まずは音楽をすることが自分にとっての必然でなければ。
そうでなければ、わざわざ東洋の端っこで西欧の音楽をすることに意味があるのかしら。
最後の生徒演奏会の舞台袖で見た情景も印象的でした。
演奏会といってもみなさんラフな服装。
奏者者同士の温かで親密な声の掛け合い。
講師のAmndineが演奏の合間にヒョイと地べたに座り込む。
ヒエラルキーを気にする必要のないフラットな人間関係。
誰でもが自由に発言し、そばの人に「ごめん、助けて」と言える人間関係。
もっともっと楽に生きられる社会になれば
この国で音楽をすることも、もっともっと喜びに満ちたものになるかもしれない。との思いを胸に秋の演奏会の準備をしています。