2023.12.08
心温まるドキュメンタリー映画を見ました。
「バッハマン先生と彼の教室」
それはドイツのさほど大きくない街、ゲストワーカー(移民労働者)の多く暮らす街の学校。当初、私の興味は移民労働者、特にその子供たちがどのような統合教育を受けているのかにありました。が、見入るうちにそんな私のちっぽけな興味は吹き飛ばされました。
言葉と風習が違っている子供たちだからといって、何か特別な教育法があるという訳ではないんじゃないか?
もちろん、言葉はコミュニュケーションの最も大事なツールであり、母国語圏外で生活する困難さは想像にあまりあります。では翻って日本に生まれ育ったからといって、子供たちが(大人でさえも)言葉をもって十分に思考を伝えられているのか?と考えると、私は首を傾げてしまいます。
バッハマン先生のクラスでは、常に思考の言語化が促がされます。
これはどういう意味か?
あなたの言葉では、それはどう言うのか?
どうしてそう考えるのか?
なぜ嫌なのか?
君は「気持ち悪い」というだけで、何も説明できていないじゃないか!
青年期に差し掛かる子供たちの心は常に揺れ動きます。
その中で皆がなんとか想いを言語化しようともがいている。
積極的な発言が続きます。
でも、時に口の重い生徒や、疲れちゃっている子も
教室にはカウチがあります。疲れっちゃったり、眠かったり、泣きたかったりしたらそこで寝転がれるようなカウチが。
これって素敵じゃない?教室で自由に寝転がれるなんて!
そして、音楽!
バッハマン先生がポロポロとギターを掻き鳴らすと、生徒がパーカッションのバチをとり、女生徒が恥ずかしそうに歌い出す。
リズムとコードとメロディ。
それは音楽の一番シンプルな形。
徹底した言語化とはまた別の、言語を超えた魂の共鳴。
それが教室の中に当たり前のようにある。
最後の場面は、それぞれの生徒たちの次のクラスへの旅立ちでした。
十分な学力を身につけて上級学校へ行くもの、意に沿わぬ決断をしなければならない生徒。彼らに語りかけるバッハマン先生の言葉が実に真意に満ちたものでした。
「この成績表に本当の君は反映されていない。どうでもいいことだけの評価だ。
君たちは素晴らしい若者だ。その事実の方が重要だ。」