2019.08.11
現在、愛知県で開催中のあいちトリエンナーレ(芸術祭)。
今回は津田大介氏の監督のもと、出品作品の製作者の男女比率を同等にしたことが報じられ開催前から注目していました。ジェンダー問題には比較的寛容と思われていた芸術の世界にも差別が残ることに驚くとともに、是非この目で確認に行こうと思っていた矢先でした。
「表現の不自由」展への否定的なリアクション。政治家の干渉。それに同調する人々からの脅迫と圧力。たった三日!議論する間も与えずなされた開催中止の決定。
今なお名古屋・大阪市長の耳を塞ぎたくなるような言いがかりや、事なかれ主義の人々からのやんわりとした拒否が続いているようですが、夏の暑さとバカンスの楽しみに、いずれはこの問題も口角に上がらなくなるのでしょう。
その時広がるのは、人々に動揺を与えるものは未然に、暗黙のうちに、お互いで抑制しあう、平和で静かな予定調和の社会、となりましょうか。
今回の騒動では、次の三つの側面が重なり合うようにして、人々に不安と怒りを掻き立たせているように思います。
一つ目、表現の自由
二つ目、歴史問題
三つ目、芸術と政治
二つ目の歴史問題、つまり慰安婦(性奴隷)問題については、現在、非常に緻密に検証を重ねたドキュメンタリー「主戦場」が公開されていますのでそちらを見ていただければと思います。
三つ目の、芸術と政治の問題についていえば、、、
確かに美しさ、安心感、心地よさ、それらは芸術の大事な要素です。
誰しも汚れたもの、グロテスクなもの、憎しみ、痛み、皮肉、孤独、虚無、、、それらネガティブな感情に向き合うのは重い。
それよりは、「美しい」ものによって癒されたい。
この「美しい」芸術の世界に、政治のドロドロを持ち込むな。
そんなものを見たくて美術館や音楽ホールに足を運んでるんじゃない。
そんな声も聞こえてきそうです。
でも、芸術行為が個々人の生々しい感情の揺れ動きを発端とするなら、そこには負の感情も、社会との関わりも、政治思想も、おおよそ人間の持ち得る情は全て芸術に投影されると思うのですね。
現に、ベートヴェンはナポレオンに理想を重ねて「英雄」を書いたし、プーランクの「人間の顔」にはナチス占領下のパリに暮らす人々の焦燥と自由回帰への祈りが色濃く立ち籠めています。ロートレックは売春宿や夜の盛り場を描いたし、与謝野晶子は反戦歌をうたった、、、、
古今東西そんな例は探す暇もなく、つまり芸術家は具体的な社会の動きを敏感に感じ取り、それを表現してきた。
政治的に中立?
はて、そんな無味無臭の作品が今後芸術として残っていくのでしょうか。
そして、三つ目の「表現の自由」
これについては法律学者の方々が「憲法21条に保障された権利」である、民主主義の根幹である、と明確に説明されていますが、そんな説明を聞くまでもなく、この状況は表現者として、息の音を止められるような苦しさを覚えるのですね。
それを言ってはいけない。
それを考えてはいけない。
それを感じてはいけない。
それを表現してはいけない。
それについて論争してはいけない。
それは存在してはいけない。
今回のあいちトリエンナーレのテーマは「情の時代」。
今、世界は先行きが見えない不安に覆われている。それが対立と不寛容を生み出している。でも、その不安や対立を煽る「情」に対抗して、打ち破れるのもまた「情」なのだと。アートにはその力がある、と。
この一連の騒動がさらなら「表現の不自由」を増長することなく、
アートの力によって、少しでも世界が寛容と多様性、つまり誰しもが安心して息のつける社会になるように願ってやみません。