2018.06.08
この著名な小説に、改めて私が書き記すことなど何もないと知りながら
それでも、書き残さずにはおられないと感じました。
今年2月に旅立たれた石牟礼道子さん。
お名前は知りながら、まだ彼女の書に触れたことがありませんでした。
なぜ?
水俣、この重たい昭和の歴史と対峙することが辛かったから。
意を決して注文した苦海浄土三部作の本は広辞苑か聖書か、と言うくらい分厚くて、
今からこれと格闘するのかとしばし絶句。
そして、読み始めた時の戸惑い。
これって小説?
時にそれは記録であり、水俣病の医学資料であり、告発文であり、何よりも伝承文学のようでした。
なんども なんども 寄せ返す波のように、繰り返される土地の言葉のひびきが耳に残り
見たことのない水俣の海が、光り輝く豊穣の海である水俣が、目に浮かぶようでした。
「あねさん、この杢のやつこそ仏さんでござす。
こやつは家族のもんに、いっぺんも逆らうちゅうこつがなか。口もひとくちもきけん。めしも自分で食やならん。それでも目はみえ、耳は人一倍ほげて、魂は底の知れんごて深うござす。」
読み進むうちに、私の生と水俣とが、知らず知らずに近づいてきました。
かつて こわごわと写真で見た白黒の患者の顔が、柔らかな仏の眼差しに
チッソ株主総会で声を上げる巡礼装束の人々が、どこかおかしみのある素朴な漁村のおばさんに
東京本社前に座り込み抗議する人々が、なんだか困った表情のおじさんに、変わっていきました。
今年は水俣病対策市民会議が発足50年だったそうです。
それはほぼ、私の生とかぶっています。
水俣病は、教科書で習う過去の公害病ではなかった。
そんなことに、今更ながら気付きました。
苦海
かつてそこは 天からの恵みに満ちた海で
いま その海を汚したものの罪を一身に背負った人々の住むその地を 石牟礼さんは浄土と言います。
その石牟礼さんは、Minamata と Fukushima はそっくり同じようだと語っていたそうです。
いつか、近いうちに水俣の海を見に行きたいと思うようになりました。