2025.04.30
ピアニスト中村紘子が18歳の時「”あなたは才能があるけど、1からやり直しなさい”と先生から言われて、それがショックで一時は放心状態になってしまいました。」という話は有名だが、明治に生きた、久野久(くの ひさ)もヨーロッパに渡り基礎からのやり直しを言い渡されたピアニストだ。
久野久(1886年:明治19年12月24日 - 1925年:大正14年4月20日)は、15歳で東京音楽学校(現:東京芸術大学)へ入学し、幸田延(幸田露伴の妹)に師事した。成績優秀で大学に残り助教授となる。
留学の年の記念コンサートでは、ベートーヴェン後期のソナタ『告別』『ハンマークラヴィーア』『作品111』などを演奏。期待を一身に背負って渡欧し、37歳でフランツ・リストの高弟であったザウアー教授の門下生となった。
ザウアーはテンポの揺らしが多いと言われるが、実際の演奏で気になるほどではない。
その揺れは“西洋音楽ネイティブ”のイントネーションなので、自然に聞こえるからだ。
久野久が、情報も少なくヨーロッパ人の模範演奏を聴く機会も少ない時代に留学して、流暢な師の技法をマスターするのは、外国語をいきなりネイティブのように話さなければならないくらい至難の業だったであろう。
しかも年齢的に久野は30代後半、ザウアー50代の子弟であった。
久野久の演奏は熱演だった。ところが一般的に“演奏の熱さ=音楽表現の伝わりやすさ”かというと、その関係性は微妙だ。弱音の方が説得力があったり、ほんの少しの間がものを言ったりする。沈黙の中での目力(めぢから)の方が伝わる情報量が多いように、音楽の演奏にも似たようなところがあり、意外にも音の大きさや演奏者の表面に出ている熱さが、時に伝達の妨げになる場合もある。
彼女は自分のエネルギーを最大限に使った熱のこもった演奏を続けることで、心身をすり減らしていったのかもしれない。
久野は現地でコンサートにも熱心に通い、フィッシャー、ケンプ、シュナーベル、クロイツァー、ブゾーニなど大ピアニストの演奏を 熱心に研究した。特にキーゼキングのソステヌートペダルを使用した弱音を武器とした演奏に深い感銘を受ける。
聴いて分かるが自分ではできないもどかしさ。ギーゼキングの良さを本当に理解する才能がありながら、自分の中からそれを表出できないことへの絶望感。
日本では”天才”といわれた久野は、ザウアーから基礎からのやり直しを言い渡されるが、1925年(38歳)ウィーン郊外のバーデンにて自らの命を絶つ。
日本西洋音楽黎明期の悲しい出来事…。
ピアノがすべてだった彼女が、プレッシャーを背負って旅立った遠いヨーロッパで耐え忍んだ苦難を思うと、胸が締めつけられる。
熊本市
東区健軍ハートピアノ教室