2017.09.23
2017年9月。夏が過ぎ去った町に秋風が吹いて雲がどんどん流れていきます。 思わず見上げて息を吸い込む私を、通行人が不思議そうに見ていきます。
ふと、どこからかピアノの音がしてきます。そして優しそうな声。
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「はい、よく弾けました。ここからもう一回ね。」
ピアノ教室のゆきこせんせい(仮名)は生徒のあるものがみえる能力を持っています。それは胸にあいた穴です。40年の指導歴の間に身につけた確かな能力の一つです。同じピアノを前にして同じ椅子にみんな座ります。しかし出す音は人それぞれみんな違いがあり、心の中のものもそれぞれの状況を伴った形で出てきてしまいます。それは無意識の領域での放出なので、本人も気が付いていない本音がせんせいに伝わってしまうのです。
いつかのコンクールでも何人かの胸に穴があいているのを目撃しました。幸いなことに穴はその人がピアノを弾いてる時にしか見えないので、ゆきこせんせいは日常は平穏に過ごすことができました。
小学2年生の、みきちゃん(仮名)はピアノを4歳から習っています。
みきちゃんは「こんにちは」と「さようなら」しか言いません。あとはどんな質問をしても考える仕草はするのですがたいてい答えは返ってこず、せんせいが推測するしかないのでした。
みきちゃんはとてもピアノが上手でした。でもゆきこせんせいは知っています。みきちゃんの胸には直径5㎝くらいの穴があいているのを。
いつものようにゆきこせんせいはみきちゃんのレッスンをしていました。その時です。突然ドーンと大きな地響きがしたかと思うと家がぐらぐらと大きく揺れ始めました。楽譜の棚が倒れてくるし、あの重たいグランドピアノも水平方向にすべっています。トラックの荷台にピアノごと乗せられて石ころの道を走っているみたいに揺れています。62年の人生で、せんせいも経験したことのない大地震です。ゆきこせんせいは反射的にみきちゃんを抱きしめました。みきちゃんは無表情で鍵盤の上に手を置いたままじっとしています。心臓が凍り付いたゆきこせんせいはその場から動くことすらできません。
どれくらい揺れたのでしょうか。恐ろしい大きな地震でしたがやっと揺れが止まりました。不気味なほどシーンと静まりかえった部屋の電気は消えて、家が損傷した粉じんでせんせいは咳き込みました。「外に逃げなくちゃ、このまま家の中にいてはまた余震がきて柱の下敷きになって死んでしまう!レッスン室のドアは開くかしら?!」
次の瞬間まさか、ということが起こりました。みきちゃんが何事もなかったかのように曲の続きを弾き始めたのでした。ゆきこせんせいは呆然としました。確かにみきちゃんの胸には穴があいていました。その穴は少しずつ大きくなっていて向こう側が見えました。みきちゃんはモオツアルトのソナタの最後の和音を弾き終えると、手首をふわっと上げてひざの上に置きました。
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秋のある日の白昼夢です。
* 「白昼夢」はフィクションです