2016.06.06
人生は一冊の問題集だと言われます。右を選ぶか左を選ぶか、常に私たちは選択判断を迫られていると言っても過言ではないでしょう。
昔から、易しい道と厳しい道、どちらに進んだら良いか判らないときは、迷わず厳しい道へ進めと偉人達は教えてくれています。「天国へ至る道は険しく、その門は狭いが、地獄への道は善意で舗装されている。」という言葉がある位です。
さて、ピティナピアノコンペティションの予選がいよいよスタート致しました。その一方では、ピティ○ピアノステッ○の方も1年中オールシーズンで、コンペと同じ位の多数の参加者を得て大盛況です。
コンペは年齢制限がある為、各級の制限年齢の内にその級の課題曲がこなせなくなった時点で、参加する事は叶わなくなります。一方ステッ○の方は、年齢制限がない為、生涯学習の一環として、自分のペースで一歩づつ歩んで行きたいと願う者にとってはとても有難いもので、コンペのみではカバーすることの出来ない、より広いニーズに応えていくものだと理解し、私も以前は多くの生徒達を参加させてきました。
しかし現在では、当音楽院に於いては、ステッ○への参加は見送っています。
私は自分のペースでゆっくり歩んでいく事には大賛成なのですが、やはり生涯学習を理念に掲げる以上、ピアノの技術向上だけではなく、ピアノを通した心の向上、人格の向上という視点を忘れてはならないと強く感じるからであります。
何故その様に思うのかと言いますと、ステッ○の現在の運営方針の中からは、人が努力をしながら何かを達成したり、或いは達成出来なかったりという中で、色々な事を振り返ったり、感じたり、心の糧を得ていくという視点を感じにくいという処にあります。
いや、ステッ○は継続することの大切さを訴えているのであって、継続そのものが一番の努力なのだと言われるかもしれません。しかし、何回止まろうがどんな演奏をしようが、最後まで演奏しさえすれば必ず合格にするという方針の下での継続に、本当にそれ程意味があるのでしょうか?(適正な競争心とは何か②参照。)
ステッ○同様、年齢制限のない各種検定等は、ピアノに限らず他にも沢山あり、色々な趣味を持った方々に生涯学習の場を提供してくれています。例えば書道やそろばん、剣道・柔道・空手などの昇段試験、英検・漢検などの検定などがそれにあたります。
ただこれらの中で、受けさえすれば全員が合格を保証されているものなどはないはずです。ヤマハやカワイのグレード試験でも、全員が受かるという事はありません。
いや全員合格といってもS・A・B・Cと段階評価をしているのだから、その批判はあたらないと言われるかも知れませんが、最高評価のSを頂いた演奏でも、コンペの地区予選でさえ必ずしも合格するレベルではない事は、両方参加したことある方にとっては、周知の事実であろうと思います。
さらに制度上、一応存在するD評価(不合格)も、「音楽として成立していない演奏、完奏していない演奏」というのが判断基準になっていますし、「ステッ○では、様々な事情を持った方が参加されているので、Dを出す場合には特別な事例も考慮の上、協議を行うように」とされていて、本来合格を出せる訳が無い演奏に対しても、アドバイザーの手足を縛っています。ただ私は、合格出来なかった時にこそ、逆に未来への希望の芽が隠されていると思うのです。
アドバイザーから講評を頂けるということは素晴らしいことです。合格できなかった今、気が付かなくてはならない事とは何なのか、正しい受け止め方とは何なのか、この時にこそ、指導者・或いはご両親によるの導きのチャンス・場があるように思うのです。
皆さんは、前日までにあらかじめ全員に用意された合格証を貰う事が、本当に嬉しいと感じますか。
ステッ○が数多くの人前で演奏する機会を提供してくれることは、とてもありがたいことです。フリーステージなどで色々な体験を積むことが出来たり、トークコンサート等でピアニスト等の演奏を身近に感じる事が出来るのも魅力的です。又年齢を問わず、23ステップを生涯学習の目標として参加できる事も、理念としては素晴らしいものだと感じます。
ただ私が個人的に残念なのは、コンペ程ではなくてもいいから、ダメな時には、例えば3割程度でも不合格を出せるようにすると、本来の理念に沿ったイベントになるのになあと考えたりもします。この様な考え方もあるのだという事を知って頂ければ幸いです。
追伸: 昨日、コンペ初参加のA1級のSちゃんが、演奏検定に参加しました。予選通過点を大きく上回る高得点での演奏検定優秀賞を受賞、本番でも是非頑張って下さい。おめでとうございます。