2016.05.19
以前、「適正な師弟関係とは何か①」と題した投稿を行ってから、4年弱の年月が過ぎてしまいました。その際に続きを予告しておきながら、今日までお待たせしてしまったことを、まずはお詫び申し上げたいと思います。
さて前回の投稿では、適正な師弟関係を築いて行く為の前提として、自己責任の考え方が大切であり、教える側に於いては適正な師の道とは何か、教わる側に於いては適正な弟子の道とは何かという事を、探求し続けることが大事であると述べさせて頂きました。今回は、まず適正な師の道とは何かという事について、自らの襟を正しながらも、部分的ではありますが、考察してみようと思います。
師の道について考えて行くには、そもそも師とは何か、そしてその条件とは何かについて考える事から始めなくてはなりません。
師とは、人々を正しい方向に導く存在です。この人に従い、ついて行っても間違う事はないと、安心を与えられる存在でなくてはなりません。
その為には、弟子が抱く様々な疑問に対し、十分に応えて行けるだけの豊富な知識のベースがまずは必要です。知識は勉強し続けなくては増えて行く事はありませんが、その前提として、幅広く色々な事に関心を持ち続ける事が大切だと言えるでしょう。
ただ、現代に於いては色々なツールによって知識は得られやすくなってきた反面、情報の質の低下という問題が新たに出てきているので、雑情報に振り回されていないかどうかのチェックは、絶対に必要だと思います。
もし知識の量ばかりを追い求めて、正しさを求める心がおろそかになってしまうならば、情報の洪水の中で価値判断が出来ず、思考停止してしまう事が起きかねません。
例えば、あなたが責任を問われないネット上の多数意見に振り回されたり、既存の常識に拘る余り、自らをイノベーションしていく上で重要な意味を持つかも知れない新たな情報・知識を、白紙の状態で見る事が出来ず、すぐ否定してしまうというのであれば、思考停止していると言われても仕方がないのではないでしょうか。河原の石ころの中からでも、より分けて砂金を見出し、拾い上げていく作業をしなくては、本当の意味で、新たな知識を獲得して行っているとは言えないでしょう。
ただ石ころばかり集めている者が知識を衒っている姿は滑稽ではありますが、それでも広く知っているという事実が、様々な問題解決の力となる場合は多いかと思うので、師で有り続けるためには、まずは広さを求めようという姿勢の中で、勤勉に良質な知識を吸収し続けて行かなくてはなりません。正しさを前提としながらも、広さを求め続ける事、これが師が歩むべき最初の道です。
次に、深さを求めていく事の大切さについて述べてみたいと思います。
知識は経験を通していくことで、智慧に変えていくことができます。もちろん知らないよりは知っている事の方が良いには違いありませんが、本当は単に知っているというだけでは物足りません。
正しさに対する確信は、経験を通す事によって初めて得られるものです。行動してみて経験してみて、その事が間違っていないことを自ら実感し、人に勧められる様にならなくてはなりません。
であるならば、広く得た知識を深い智慧に変えていくために、常にチャレンジ精神を持って行動し、経験の中で魂の糧として結晶してくるもの、智慧を多く蓄えて行く事が、師の歩むべき次なる道です。
そのチャレンジ精神そのものが、勇気の原理として、弟子達に良き感化を与えることもあるとは思いますが、それ以上に智慧に裏付けられた言葉には確信や実感があり、説得力、迫力が備わってきます。師が迫力のある言葉を語れないようでは、弟子はついては来れないのです。
ちょっと考えてみて下さい。師に対して、知識の量の差以上に埋めがたいのが、智慧の深さの違いではないでしょうか。今まで歩んできた道のり、そして経験の幅が全く違うはずです。師はその部分に誇りと自負を持てるように、今後も怠らずに精進を重ね、逆に弟子はその事に思いを致し、浅知恵を恥じ、謙虚にならなくてはなりません。
今回は、師が歩むべき道として、まずは広さを求め、次に深さを求めよと述べてまいりました。少し長くなりそうなので今回はここまでとし、次回は高さについて、自戒の念を込めながらも、語ってみたいと思います。どうぞご期待下さい。 つづく。