2015.09.29
感化力の非常に強い演奏があります。聴く人の価値観、常識、好み等を超えて感動、共感の輪が拡がっていくような演奏です。
一方、大変よく勉強をし、上手に演奏しているにも拘らず、印象に残らずただ通り過ぎて行くだけのような演奏もあります。
どこに違いがあるのでしょうか?
コンクールなどの現場では、前者の様な演奏に憧れ、それを目指した場合には、感化力が説得力を持つに至るところまで磨き込む事が出来なければ、各人の好みの違いや既成の常識等の壁に阻まれ、不遇な結果に終わることが多いように感じます。
逆に後者の場合には、爆発的な高得点は望めないかもしれませんが、上手に弾けてはいる以上、減点するわけにも行かず、平均的にはそこそこの得点となり、受賞の栄誉に浴する事も少なくありません。
皆さんはどちらの演奏を目指したいと思いますか?
芸術の本来の使命は、時代を超え、人種や地域、性別なども超え、多くの人々の魂を感動のバイブレーションで揺さぶり、普遍的な美の世界が存在することを示すことにあると思われます。
岩間に健気に咲く花を見て美しいと感じる心は、教えられてそう感じるのではなく、私達が生まれつき普遍的な美を解する心を持っていることを示しているようです。
前者の様な演奏に出逢った時には、自分の人生に新たな喜びが一つ加わった様で、とても幸せな気持ちになります。
一方後者の演奏は聴いても全く他人事で、自分の人生には何の意味も持たず、何の変化ももたらしません。
私は例えコンクールであったとしても、演奏はその人が何を美しいと感じ、何に感動しているのかの美意識の発表の場であると考えています。
このように弾くことが良いことだと教えられ、場合によっては有利だと教えられ弾くだけでは全然物足りません。少なくとも自分の心がそれに共感し、心が震える位の所まで掘り下げていなければ、いくら上手であったとしても聴衆に感動が伝わっていくはずがないではありませんか。
芸術に関わっていく以上、心にもないことはしてはならないのです。本心から美しいと感じ感動している処の魂の喜びを、赤裸々に語りかけ表現し、共感の輪でもって拡げていく、ここに感化力の基となる前提があるのだという事を、私は信じて疑いません。
さて、昨日は日本クラシック音楽コンクールの本選会に、当音楽院からも小学6年生のYちゃんが挑戦しました。Yちゃんは、昨年同コンクールにおいて全国大会第5位という好成績をおさめているため、今回は予選免除のシード権を持っており、本選からの参加となりました。演奏曲目はバッハのイタリア協奏曲第一楽章、そしてモーツァルトのトルコ行進曲です。
トルコ行進曲の方は、既に心にはっきりとした理想像を描くことが出来ていた為、今回何も参考にしたりすることなく、むしろ敢えて聴かないようにして、ひたすら説得力を増す為に精度を上げて磨き込むことに専念しました。
イタリア協奏曲の方は、少し漠然とした所がスタート時にはあったので、色々な演奏を参考にはさせて頂きましたが、それが本当に良いと思い、心から共感できた事のみを取り入れていくという姿勢は守ったつもりです。
結果その演奏は、イタリア協奏曲はほぼ良し、トルコ行進曲は若干テンポが走り気味で、演奏後の本人の様子を見ると、決して満足ではなかったようです。
それでも審査結果は優秀賞受賞で、2年連続の全国大会出場を果たしました。
私の指導を信頼し、ご家族が一体となって努力をされてきた結果だと思いますので、おめでとうを言わせて頂くのと同時に、心より感謝申し上げたいと思います。
全国大会では、今度こそ演奏直後に会心の笑顔が出ますように、さらに信じるところに磨きをかけていって下さい。どうもありがとうございました。