2015.09.27
ピティナピアノコンペティションが終わり、早いもので1ヶ月が経ちました。初めての貴重な経験を積んだ者、昨年の悔しさを一部挽回できた者、今年も目標を達成できずに悔しさが残った者など、その結果は人それぞれですが、その経験にそれぞれがどの様な総括をするかは考え方次第であり、今後経験がプラスになるかマイナスとなるかは、結局は心の操縦次第という事になりますでしょうか。
さて、前回「叱っても良いが怒ってはならない」と題し、小文を掲載させて頂いた所、予想以上にアクセス数があり、皆さんも子育てにおいては、結構ご苦労がお有りなのだろうなと感じさせて頂きました。今回はその続編として、お稽古事における指導者と主にお母様の役割分担について、私が普段感じていることを述べさせて頂きたいと思います。
前回述べさせて頂きましたように、私はお母様方には、何かが出来たから褒める、認めるというのではなく、無条件に子供の存在を深い愛で包み込み、思い通りにならない時こそ大丈夫であると元気づけ、安心を与えられる存在であってほしいなと願っています。
もちろん父親も同じではあるのですが、特に母親の方は子供が幼い時には親子の一体感が非常に強く、子供にとってお母さんが自分を認めてくれているかどうかはとても重大な事であって、それで自分の価値を確認しているような所があるのではないかと思うのです。
何年もコンペをやっていると、レッスンに連れ添っているお母様も段々とピアノに詳しくなってくることもあり、間接的で限られた経験ではありつつも、あたかも審査員の様に子供の演奏に注文をし、場合によっては指導の内容にまで注文をしてくるケースも見られます。
いくら詳しくなってもそれ自体は良い事ですし、必ずしもピントが外れているわけではありませんが、私はそう振舞うことがお母さんの演じるべき役割であるかどうかという事になると、一定の疑念を感じざるを得ません。
お母さん方が厳しすぎると、指導者の方は逆に、あまり厳しく指導することができなくなりがちです。誰かが認めて肯定してあげないと子供が潰れてしまうからです。
お母さんがサポーターに徹し、良い時もそうでない時も変わらず温かく包み込めるような方だと、指導者は安心して厳しく指導することができます。
なんだかんだと言っても専門の知識と経験を持ち、責任をもっているのは指導者の方なのですから、一般論としては先生が厳しく指導をし、お母様はどんな時にも変わらず子供の可能性を信じ、その頑張りを認め、決して否定的な念いを出さずに励ましていくように努める、これが機嫌よく伸びていくための役割分担ではないでしょうか。
子供はレッスンで叱られ、本番で思うように弾けなければ、審査員からも場合によっては酷評されているのです。審査員はその日の演奏だけで判断をしますが、お母さんはスタート点からの伸びしろを知っているはずです。審査員の視点と同じで良いはずがありません。
叱ってよいのは、子供が周りへの感謝を忘れている時です。その時こそ親として毅然とした態度で叱ってあげて欲しいものだと思います。
付け加えて申し上げるならば、前回も述べた事ですが、間違った行為や念い、言動などを親として叱ったとしても、存在そのものを否定するような叱り方はしてはなりません。その最たるものが無視です。いくら一時言う事を聞くようになったとしても、子供が一番傷つくのはお母さんから無視されることなのです。誰も認めてくれなくてもお母さんが認めてくれれば、子供は自信を持てるようになるのです。
厳しい指導は指導者に任せて、お母さんは無条件の愛の供給者となって子供の安心立命の根拠となってください。この小文が何かのヒントとなれば幸いです。