2012.08.07
前回、前々回と、近年日本の教育界や私達の関係する音楽教育界へ、ゆとり教育が与えてきた悪影響等について検証してまいりましたが、そもそもゆとり教育自体、適正さを欠いた競争による弊害に対するアンチテーゼとして出てきたものだと思いますので、ただ批判するだけではなく、適正な競争心とはなにかという問いに、キチンと答えていかなくてはならないと感じています。
結論を先に申しますと、抽象的に聞こえて多少申し訳ない気も致しますが、心や人間性の向上を伴う競争は善であるが、技術や能力の向上だけでは善と言うには物足らないということです。逆に競争することによって心の醜さが現れて、感情がコントロールできなくなる様な人もたまに見かけますが、その様な競争は適正ではないと言えましょう。
要するに適正さというのは程度の問題ではなく、心のあり方の問題だと私は考えているのです。
競争といえばすぐ思い浮かぶのがライバルの存在ですが、一般にライバルがいた方が、刺激を受けて能力や技術が向上しやすいということは、みなさんも経験則から頷かれることだろうと思います。ライバルに負けたくないという自尊心も、大切なものだと私も考えております。
そして切磋琢磨をしていく過程で、時には勝者となったり敗者となったりする訳ですが、その時に心の有り様を分かつ重要なポイントがあります。それが勝者に対する嫉妬心の克服と祝福の心です。
出る杭は打たれるとよく言われるように、残念ながら日本の社会は、成功者への嫉妬心が少し強い社会の様に思われます。
負けた方が勝った方に対して、「あれはたまたま運が良かっただけだ。」とか、「要領がいいんだよねえ。」とか、「恵まれている奴はいいよな。」とか、何かと難癖をつけて相手側の努力を公平に評価できないケチな心が頭をもたげそうになる訳ですが、しかしよく考えてみますと、一般的に私達が嫉妬心を感じる相手というのは、自分の自己実現の関心領域に限定されているのが普通ではないかと思うのです。ピアニストになりたい人が、イチローの世界記録達成が悔しくてたまらないというのは、普通考えられないことです。
その事実が、私たちに何を教えようとしているのかを感じ取らなくてはいけません。つまり嫉妬心を感じる相手の姿は、本当は自分がなりたかった姿なのであり自分の理想像でもあるのです。
であるならば、それに対し難癖をつけ否定するような思いを持つことは、同時に自分の心の中にある理想像をも傷つけ否定することにつながります。
人の心は潜在意識で強く願っている方向へ引っ張っていかれる性質があるので、自分も成功したければ、嫉妬の心を努力して祝福の心に切り替え、理想像を肯定し、自分が自己実現したいのはこの方向であると、潜在意識に教えてあげなくてはならないのです。決して理想像を破壊してはならないのです。
ありがたいことに、嫉妬心を感じさせてもらえたということは、自分の心の奥にある未来の自己実現のあり方を見せてもらえたという、貴重な経験のだという事を知らなくてはなりません。
負けて悔しさのあまり、嫉妬の心で頭が一杯になったり難癖をつけたくなった時には、努力して祝福の心を持つようにし、勝って有頂天の時には、「これは自分だけの力だけではない、色々な方々の御蔭で、たまたま勝たせて頂いているのだ。」と謙虚に感謝し、益々精進を重ねて行く、これが「適正な競争心とは何か」というテーマに対しての私の現在の考え方です。「競争」ではなく、何故「競争心」としたのかを、お汲み取り頂ければ幸いです。皆さんはどのようにお感じになられますでしょうか。
さて、昨日ピティナピアノコンペティション東日本埼玉Ⅱ地区本選が終了しました。
二つの予選を2位と1位で通過し、全国決勝大会初進出を目標にしているM君(D級)は、残念ながら2曲目のシューベルトでズッコケて弾き直しがあったため、決勝進出は逃したものの、本選優秀賞と特別賞の埼玉新聞社賞を受賞できたので、2度目の本選である東日本栃木地区本選へ何とか希望をつないでいます。
ピティナ初挑戦のYちゃん(B級)は、本選奨励賞を受賞し、今年のチャレンジはここで終了です。おめでとう。そしてお疲れ様でした。
次回からは「適正な師弟関係とは何か」ということについて、考察してまいりたいと思います。危険球が飛び出すかもしれません。ご期待下さい。