2016.12.11
人は同じ様な経験をしても、必ずしも同じ様な人生を歩むとは限りません。それは人生の分かれ道において、考え方を選ぶという行為が発生するからに他なりません。
例えば、人生において一時期、非常に辛く厳しい日々を過ごす事になったとします。ある者はその苦労がきっかけとなってひねくれてしまい、世を呪い、人を呪い、全く人が変わった様になってしまう事もあるでしょう。
逆に同じ様な境遇にありながら、自らが苦しみを経験する事を通して初めて、一見幸せそうに見える他人も又、苦しみながらも懸命に生きているのだと、今まで見えてなかったものが見える様になり、慈悲の心が芽生えて反って優しい性格に変わる人もいます。
徳のない者は自分自身の事を考えている時間が長いのが特徴で、人の幸せを考えている時間が長いのが徳ある者の特徴だと聞いた事があります。まさに事に際して考え方を選ぶという事が、その後の人格形成にも大きな影響を及ぼすものなのだと、改めて肝に銘じる次第です。
さて、私達の卑近な例においても、「考え方を選ぶ」ということについて、少し考えてみたいと思います。
皆さんは、例えばコンクールを受ける時には、どの様な考え方で受けようとされるのでしょうか。
以前私は、「コンペに参加する目的と条件」の中で、「竹が節を作りながら伸びて行くように、時折学んだことをキチッと固めていく作業が大切であり、その節を作ることが、コンペに参加する目的である。」と述べさせて頂きました。
もちろんこれは指導者サイドの考え方であり、生徒や保護者ともにその考え方を心の深くに落とし込んで共有する事が出来れば理想的ではあるのですが、何分勝ち負けがある世界であるが故に、建前を離れて本音としては、又違った視点もあるであろうことは否定は出来ません。
それでも私は敢えて、「合格を目指して努力して行く中で、それまで学んだ事をしっかりと固め、成長を確かなものとする。そして共に音楽を作っていくその過程そのものに喜びを感じ、努力そのものを楽しむ。」という事を推奨したいのです。
例えば、とても良い結果を残しているにも拘らず、それ程嬉しい気持ちにもなれず、指導者との一体感も持てず、という事があったとしましょう。
コンクールごとに勝つ為のコツの様なものがある事は、私も理解はします。ただ音楽を創り表現していく事の本質的な喜びよりも、勝敗やプライドに拘るあまり、傾向と対策に夢中になりすぎると、一番大切な感動を表現する心が置き去りになって、その作業がつまらなくなってしまう場合があるのだと思います。
逆に、結果は望んでいたものとは少し違ってはいても、一時悲しい気持ちになる事は否定は出来ませんが、単なる強がりではなく、先生やご両親と共に努力してきた道のりを清々しい気持ちで振り返ることができ、やって楽しかった、自分の成長の跡も実感できて嬉しかったという考え方を持てるのであれば、それは今後の成長が大いに期待できる、前向きで十分有り得る考え方であろうと思います。
音楽は、スポーツの様に白黒はっきり勝敗がつく世界とは少し異なります。もちろん誰が聴いても上手、或いは下手という事はあるとは思いますが、それだけではなく芸術観の違い、はっきり言えば好き嫌いによっても結果の左右されるのがコンクールであって、半分は実力、半分は運だと私は思っています。
もちろんどんな場合でも、合格することを目指して努力をする事に変わりはありませんが、少なくとも私自身、合格した時は特別努力をし、出来なかった時は努力を惜しんだつもりは全くありません。常に全力です。
合格はしたい、だけど心にもない事だけは絶対にやらないという、芸術に携わる者の当然の誇りを持ちつつも、結果は好かれたり嫌われたり、運に左右される所がある世界である事を百も承知の上で、それでも納得が出来る考え方を選び、コンクールと機嫌良く上手に付き合って行く。さすれば皆が共に成長していく事ができ、その過程においてその事に付随する喜び・幸福を継続的に得ていく事が出来ると、私は確信しているのです。
生徒が成長していく喜びは、本人はもとよりご両親の喜びでもあり、そして私の喜びでもあります。これが、私が繰り返し繰り返し「機嫌良く頑張る事の大切さ」を述べている本当の理由です。今後とも変わらぬご支援を頂ければ幸いです。
追伸:中学1年生のYちゃんが、ショパン国際ピアノコンクール in ASIA 全国大会への出場を決めました。おめでとうございます。