2019.04.30
皆さんにとって平成は どんな時代でしたか?
私にとって「平成」は、終始
介護 養護 看病があり、それをやりながら
子育てと仕事の両立で毎日が あっという間の時代でした。
以下の文章
生きてるうちに、身動きがとれるうちに、
思うところがあり
私の平成史を書いて残そうと思いました。
亡母の介護をしながら
各地(橿原、生駒、北葛城、御所、桜井)でピアノ指導をはじめてから 数年後に平成に なりましたが、
平成に入ると同時に、自宅と個人出張がメインに なりました。
結婚するまでは、介護と 家事
そして ピアノ だけでしたが、数年後 息子が生まれてからは 本当に大変でした。
やっと赤ちゃんが出来た!
その喜びを母に知らせようと 病院から実家に直行すると、玄関で母が泡をふいて倒れてました。
救急車が来るのを待ちながら、頭によぎったのは
『脳腫瘍再発?』
「せっかく数年前 奇跡的に助かり、家の中だけは なんとか 這うように歩けるまでに なっていたのに」
そんな思いでした。
その日から 妊娠中では ありなが
母の介護とピアノの仕事と自宅家事と実家家事がはじまりました。
しばらく経った後、主人の母も入院 手術があり、主人の母の介護と主人の実家の家事が 重なったので
二人の母の介護
三件分の家事
ピアノの仕事
と 目がまわるような毎日でした。(これをAとします)
そんな中、お腹の赤ちゃんはダメかもしれない即入院!入院してもダメかもしれないけど
と言われ…
入院できない現実問題があり
週四で医大に通うことになり
上記のAを こなしながらの
週四 医大 通院は かなりハードで、その渦中の苦しさは なんとも言えず。
しかし、その気持ちと闘えた?
からなのか神様が力を与えてくれたのか
ダメかも?と言われた赤ちゃんは
命は もちこたえてくれました。
ホッとしたのも つかの間
お腹の赤ちゃんは 障害ある可能性が!!と
それについての詳細を告げられ…
またまた 突き落とされるかのような苦悩。
しかし 日にちが経つにつれ
どんな状態であれ この子は!!
と強い覚悟に変わりました。
なかったかもしれない命…
障害があっても命があっただけでも有り難い…
(のちに 私が 息子のリハビリ中育脳中に くじけなかったのは 、この覚悟の強さだったと自分で振り返り分かりました)
出産は、陣痛誘発 一週間の約170時間 苦しんだ末に結局、帝王切開
息子は仮死出産、私も 死にかけ
壮絶な出産となりましたが、今 こうやって二人共 命をいただき 生かせてもらってます。
息子は 私と同時に退院は出来ず
私が先に退院しましたが、
退院した 次の日から働きました。(理由は以前書いたように)
息子が退院してから
上記の Aに さらに息子のことが あり
目が回る生活は さらに目がまわる生活になり、
今となっては どう こなしていたのか?と自分で 思うほど。
その後 母は亡くなり(闘病十年後)介護は なくなりましたが、母が亡くなった一週間後に
こんどは 主人が 大怪我で救急車で運ばれて それから主人が歩けないので
まあ、またまた 大変な生活に。。。
歩けない幼い息子を抱えてリハビリだけでも 大変な中、抱えられない大きな主人の
介助?介護?
もちろん 仕事もある中で
(ToT(このことをBとします))
今はデイサービスがあるから
今の人が羨ましい!と言うと不謹慎かもしれませんが
昔は デイサービスもなく 過酷すぎました!!!
この時のことを書くだけで
本一冊くらいは軽く書けますから。
上に書いてきたようなAのことをはじめ (他にも もっとあります)様々なことを乗り越えた私でも
さすがに このBが またまた重なった時には
私は 苦労するためだけに
生きてきたのかな?
て 毎日 毎日 泣いていました。もう 泣くしかありませんでした。
泣きながらも
生活のために働かなきゃ!
この子を育てなきゃ!
と 毎日 必死でした。
ピアノ指導 生徒さんのおかげで
なんとか生活させてもらえましたが、生活のため と いうより
やはりピアノに心を支えてもらえた!ピアノを通して出会えた生徒さん達と一緒に過ごせる時間があることが 支えになっていました。
つづく