2026.03.28
心が澄み切る一冊。
東山魁夷
「日本の美を求めて」
(一枚の葉より)
発行所 株式会社 講談社
花はいま月を見上げる。
月も花を見る。
跡かたも無く消え去って、
ただ、月と花だけの清麗な天地となった。
巡り合わせ
花の盛りは短く、月の盛りと出合うのは、
なかなか難しいことである。
ただ一夜である。
曇りか雨になれば見ることが出来ない。
その上、私がその場に
居合わせなければならない。
どんな場合でも、風景との巡り合いは、
ただ一度のことと思わなければならぬ。
自然は生きていて、常に変化して行くからである。
それを見る私達自身も、日々、移り変わって行く。
生成と衰滅の輪を描いて変転してゆく宿命において、
自然も私達も同じ根に繋っている。
花が永遠に咲き、私達も永遠に地上に存在しているなら、
両者の巡り合いに何の感動も起こらないであろう。
花は散ることによって生命の輝きを示すものである。
花を美しいと思う心の底には、お互いの生命を
いつくしみ、地上での短い存在の間に巡り合った
喜びが、無意識のうちにも、感じられるに違いない。
花に限らず名も知らぬ路傍の一本の草でも
同じことではないだろか。
風景によって心の眼が開けた体験を、
自己の生命の火が間もなく
確実に消えるであろうと自覚せざるを得ない
状況の中で、初めて自然の風景が、
充実した命あるものとして眼に映った。
強い感動を受けた。自然と自己の繋り、
緊密な充足感に目覚めた。
全く人間を拒絶するような
荒廖(こうりょう)とした風景で、
私の心を強く引くものがあった。
人間の心の象徴としての風景であり、
風景自体が人間の心を語っているからである。
人はもっと謙虚に自然を、風景を見つめるべきである。
庭の一本の木、一枚の葉でも
心を籠めて眺めれば、根源的な生の意義を
感じ取る場合があると思われる。
枝についた一枚の葉
今は、その葉は美しい緑に、
夏の陽を受けて輝いている。
その葉が、まだ、小さな芽として初めて私の眼に
触れた頃を思い出す。
おまえは、すくすくと伸びて初夏の陽を
明るく透かす若葉となる。
生命の充実を感じると共に、その柔らかい葉が
虫に侵され易いのも、この季節である。
幸いにおまえは無事に夏をむかえ、
いま、仲間と共に青々と繋り合っている。
私はおまえの未来をも知っている。
夏の盛りになると、葉蔭ではアブラゼミが
騒がしく鳴き立てるだろう。
しかし、台風が過ぎる頃になると、ヒグラシや、
ツクツクボウシの、どこか寂しげな歌声に変わる。
涼しくなる。蝉の声が聞こえなくなって、
こんどは根もとの方から虫の合唱が、
しめやかに秋の夜の興を添える。
おまえの緑は、なんとなく疲れた色合いになって来る。
やがて黄ばみ茶色になって、寒い雨の中にうなだれている。
一夜、風が雨戸を鳴らすと、
翌朝、おまえの姿は、もう、枝には見られない。
ただ、その跡に小さな芽が付いているのを
私は見出すだろう。その芽が開く頃、
地上に横たわっているおまえは
土に還って行くのである。
これが自然であり、
おまえだけではなく、地上に存在する全ての
生あるものの宿命である。
一枚の葉が落ちることは決して無意味ではなく、
その木全体の生に深くかかわっていることがわかる。
一枚の葉に誕生と衰滅があってこそ、
四季を通じての生々流転が行われる。
一人の人間の死も、人類全体の生にかかわっている。
自分に与えられた生を大切にして、
同時にひとの生をも大切にして、
その生の終わりの時、大地に還って行くことは
幸いと思わねばならぬ。
私が庭の木の一枚の葉を観察して得た
諦観というよりは、一枚の葉が生と死の輪廻の要諦を、
私に向かって静かに語ってくれた言葉なのである。